□日本100名城
2006年に各地域での知名度や文化財としての重要性、歴史的価値、復元性などを鑑みて、財団法人日本城郭協会が選んだ日本国内の代表する100城(城跡)です。
□城跡・古戦場を巡る
福島県
群馬県
茨城県
埼玉県
東京都
神奈川県
静岡県
愛知県
長野県
岐阜県
滋賀県
□関ケ原の戦い~東軍(徳川軍)VS西軍(毛利軍)
日本を二分した大合戦
豊臣秀吉亡き後、急速に力を持った徳川家康に対して挙兵した石田三成。毛利輝元や宇喜多秀家など五大老のうち二人の大老を擁し、多くの大名も名を連ねた西軍は、開戦からわずか半日で敗北を喫しました。豊臣時代を経て、天下を争い戦に明け暮れた戦国時代から変わり、保身に走る各大名の思惑にうまく乗れなかった智将三成。豊臣恩顧の大名をも取り込み、既に開戦前に各大名への根回しを行っていた老将の徳川家康。ある意味、各大名の心理的な部分での戦いや勝敗が見える戦いでもあるかもしれません。
□姉川の戦い~織田・徳川軍vs朝倉・浅井軍
織田信長、義兄弟との戦い
織田信長の妹、お市の方の夫となり、織田信長と義兄弟になった北近江の大名の浅井長政。しかし、織田信長の朝倉氏討伐を機に敵味方に分かれ、やがて姉川で決戦を行うこととなりました。浅井長政の胸中はいかがなものだったのでしょうか。今ではそれも分かりませんが、但し、歴史として、戦いの結果、そしてその後の流れは史実として知られています。果たして、浅井長政は織田信長と共に戦った方が良かったのか、それともやはり敵味方で争った方が良かったのか…例え史実が分かっていたとしても、やはりその想いは長政にしか分からないのです。
□小谷城~浅井長政
浅井長政とお市の方、そして数奇な三人の娘たちが過ごした城
織田信長を義兄弟になりながらも、信長を裏切り、そして妻であり信長の妹であるお市の方を解放して、小谷城で自決した浅井長政。その後、お市の方は柴田勝家に嫁ぎ、そして、浅井の血を継ぐ3人の娘たちは、豊臣家、徳川家と戦国の世の激流に飲み込まれながら数奇な人生を歩んで行きます。そんな彼女たちが往時は穏やかな日々を過ごしていたであろう小谷城。ある意味。その後の日本の歴史を作ったといっても過言ではないお城です。
□桶狭間の戦い~織田信長 vs 今川義元
義元、信長、家康の分岐点
に最も近いと言われた三国領主の今川義元に対峙する小国尾張の織田信長。家康を含め三武将の運命が変わった桶狭間の地を訪ねてみました。
□小牧・長久手の戦い〜豊臣秀吉vs徳川家康
唯一、秀吉と家康との戦い
信長の後継者として勢いに乗る豊臣秀吉に対して、待ったをかけた徳川家康との一戦。秀吉と家康が直接戦ったのはこの戦が唯一と言っていいほど。大兵力の豊臣軍に対して徳川軍が仕掛けた戦い方も凄いの一言です。
□比企城館跡群
国指定史跡の城館跡
都内から1時間ほどで訪ねられる埼玉県の嵐山町・ときがわ町。国指定史跡の城跡や館跡があるほか、渓谷、そして温泉などが楽しめる、気軽に回れるツーリングエリアです。
□忍城~成田軍 vs 石田軍
不屈の隠れた名城を探索しよう!
東海道側から小田原城を攻める豊臣軍本体の別動隊として、中山道から北条氏の支城を攻める石田三成軍。現埼玉県行田市にある成田氏の本拠地の忍城は「浮き城」とも呼ばれた水に囲まれたお城。この城を攻めるために三成が取った手段は、主君の秀吉が高松城で使った水攻め。広大な堤を作り、忍城の攻略をもくろむ三成。現さいたま古墳群も舞台となった壮大な攻城戦。小説や映画にもなりました。
□山中城/韮山城~豊臣軍 vs 北条軍
数時間で陥落した山中城と、三カ月守りきった韮山城
天下をほぼその手中に収めた豊臣秀吉に対峙を続ける関東の雄の北条氏。その討伐に向かった豊臣秀吉軍。そうそうたる武将がなを連ねる豊臣軍に対するため北条軍が急遽、要塞化した山中城。そして、その少し先にある支城の山城、韮山城。結果、山中城は数時間で陥落し、韮山城は数か月間城を守り切りました、果たして、その差は何だったのでしょうか…
□三増峠の戦い~武田軍 vs 北条軍
戦国史上最大の山岳戦
戦国史上最大の山岳戦とも言われる三増峠の戦い。戦国きっての策略家である武田信玄と北条氏康の知略比べ。そして、戦国きっての剛将である武田家の山形昌景と北条家の北条綱成との戦い。待ち伏せする北条軍に、山岳戦を得意とする武田信玄はどのような柵を講じたのか…。まさに両氏が熾烈を尽くした戦国史上最大の山岳戦の地を訪ねてみました。
□高天神城~武田軍vs徳川軍
武田氏と徳川氏の威信をかけ、またその威信を失楽させた城
今川義元亡き後、駿府の国に侵攻する武田信玄。そして、遠江の国から東侵する徳川家康がぶつかった静岡県掛川市にある高天神城。武田信玄の子、武田勝頼も含めて、難攻不落ゆえ、その両家の間で翻弄されたお城でもあります。“高天神城を制するものは遠州を制す”と言われた同城の行く末とは…
□長篠の戦い~織田/徳川軍vs武田軍
武田四天王 それぞれの散り様
武田信玄が没した後、若くして武田家の頭首となった武田勝頼。精力的に版図を拡げるも、長篠城主の徳川家への寝返りにより徳川家康と対峙することに。そして、長篠の地に現れた織田信長。織田信長・徳川家康連合軍に立ち向かう戦国最強とも言われた武田の騎馬軍。しかし、その戦況は厳しいものでした。その中で武田家の古臣の四天王が選んだ道とは…。
□川中島の戦い~上杉軍vs武田軍
戦国史上に残る戦国武将同士の一騎打ち
相手が強いと知れば知るほどに、野戦という選択ではなく調略などで相手の戦力を削って相手を貶めることが多かった戦国時代。お互い良いライバルと感じつつ、その強さを知りながらも、川中島の地で決戦が行われた上杉謙信と武田信玄。その真意はともかくとして、両雄の一騎打ちは戦国時代最大の浪漫とも言えます。そんな川中島の両雄が戦った地を訪ねてみました。
□神指城~上杉景勝
未完の大城
会津に移封され、その地に新たな上杉の歴史を作るべく、新城の建築を行った上杉景勝。しかし、ほどなくして関ヶ原の戦が行われ、戦に負けた景勝は城が完成することなく他の地に移封された。そんな、歴史の狭間に建築が行われました未完の大城の神指城。その遺構は既に失われていますが、その地に立って上杉景勝や直江兼続がその絵を描いていた会津上杉藩を想像してみるのも乙なものかもしれません。
□岡崎城~松平元康
徳川家康が生まれ育ったお城
天下人の徳川家康が生まれ育ったお城で、桶狭間の戦い後、入城し今川家から独立をした家康発祥の城ともいえますが、人質生活が長く、また長男を同城で自刃させてこともあり、家康にとっても決して思い出の良いお城とも言い難いかもしれません。そんな歴史も今は市民の憩いの場となっていて、のどかな風が吹き抜けていきます。
□小田城~小田氏治
戦国最弱な武将の本城
戦国最弱の戦国大名と言われ有名になった小田氏治。居城の小田城を9回に渡り失陥し、最終的に400年続いた小田氏の所領を没収されましたが、多くの小大名が大きな戦国大名に飲み込まれ、また没していく中で、8回も居城を奪還し、関ヶ原の戦い以降まで生きた氏治は、やはり素晴らしい戦国大名の一人だったに違いありません。そこには鎌倉時代以降15代続いた小田氏の、及び小田氏治の領民への良治世を感じさせてくれます。
□葛西城
環七沿いにある城跡
都内の幹線沿いにポツンと佇んむ城址公園。実は、室町時代、そして戦国時代とその地にあった葛西城の跡の場所になります。小さな公園で、今は碑と案内板でしか、その当時の様子を垣間見ることが出来ませんが、ここにも歴史の舞台があったことは史実なのです。
□石垣山城~豊臣秀吉
一夜では出来ないかなり立派なお城
天下をほぼその手中に収め、天下統一の最後の大きな戦となった小田原征伐。上杉謙信も武田信玄も落とせなかった小田原城に対して、見下ろすがごとく一夜で造られました石垣城。そこでは、豊臣政権に向けてのいろいろな歴史の一幕もありました。エンターティメント好きの豊臣秀吉の舞台でもあった石垣山城、そこから見える景観も素晴らしいものでした。
□小田原城~北条五代
戦国時代きっての難攻不落の城
北条早雲以降、関東で覇権を握り、最大版図は240万石ともいわれました北条氏。その本城であります小田原城。上杉謙信も武田信玄も落とせなかった難攻不落の城ですが、豊臣秀吉による小田原征伐で開城して、北条氏はその幕を下ろしました。1960年に再建された天守閣には小田原城や北条五代の資料や歴史を見ることが出来るほか、最上階からは北条の城主も見たであろう相模湾の景観を望むことが出来ます。
□滝山城
中世城郭の最高傑作
東京都の八王子市にあり、同市の名城跡の八王子城の陰に隠れがちですが、その保存性の良さから、中世城郭の最高傑作とも言われています城跡です。現在は城跡を含めて都立公園になっていますが、桜の名所で、自然が多く残り、険しい山城の八王子城と違って平山城のため散策しやすいお城です。八王子城に行く際には、是非、合わせて立ち寄りたい城跡です。
□八王子城
豊臣軍vs北条軍で殲滅戦となった悲劇の城
前田利家や上杉景勝、真田昌幸といったそうそうたる武将が連なる豊臣軍の別働隊と城主不在の北条軍の熾烈な戦いが行われました八王子城。落城した際に北条の武士や婦女子が次々に自刃したこともあり、悲劇の城としても伝わるお城です。山城ということで、本丸までの道のりを予想以上にきつく、麓の御主殿跡には立派な石垣などがあるので、山城の方には行かずに、御主殿の方を巡るのがお勧めです。
□二俣城/鳥羽山城
徳川氏vs武田氏の最前線の城
武田軍と徳川軍との戦いの最前線にもなっていました浜松市天竜区にあります二俣城。武田信玄が西上の際には、徳川軍の同城が落とされ三方ヶ原の戦いとなりました。また、徳川家康び嫡子でもあります松平信康が自刃した悲劇のお城でもあります。二俣城を攻略するために家康が作った近くの鳥羽山城とともに、雰囲気の違う二城を見比べつつ、歴史の流れを感じてみました。
□三方ヶ原の戦い/浜松城~徳川軍vs武田軍
死を覚悟した、家康完敗の戦
武田信玄と若き日の徳川家康が直接戦いを交えた三方ヶ原の戦い。結果は経験に勝る武田軍の圧勝で、浜松城に戻った家康は、死を覚悟して空城の計で難を逃れました。その後の家康にとって、この戦いを経験したことは大変貴重なことだったと思います。その武田軍に一矢を報いたと言われる犀ヶ崖の古戦場、そして出世城と呼ばれる浜松城の史跡を巡りつつ、若き日の徳川家康に思いをはせてみました。
□金山城(新田金山城)
「戦国時代の関東の山城に本格的な石垣の城はない」という定説を覆した城
「戦国時代の関東の山城に本格的な石垣の城はない」という定説を覆した城で、石垣を多用した山城で、上杉軍や武田軍をもってしても一度たりとも落城をしなかったお城で、日本百名城、及び関東の七名城に選ばれています。実際に、復元ですが、その虎口などの石垣はびっくりするほどの迫力があり、また、当時の石垣も残存している城跡です。物見台からは上毛三山の好眺望も望めます。
□鉢形城
荒川を生かして作られた要塞
北条氏の居城として、上杉謙信や武田信玄と対峙し、豊臣秀吉による北条征伐では、城主が不在の中、前田利家・上杉景勝・真田昌幸軍35,000人に対して、1か月間もの籠城を行った城で、日本百名城にも数えられている平山城です。