■関ケ原の戦い~東軍(徳川軍)VS西軍(毛利軍)

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天下分け目の大合戦地跡

一度は来てみたかった関ヶ原。今から400年以上も前に、ここで天下分け目の大合戦が行われました。実際に現地を見て感じたこと。それは、やはり最後は人なんだと…

関ケ原

徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将として石田三成率いる西軍との間で、20万人近い兵の戦いが繰り広げられた関ヶ原。実際に同地を訪ねてみると、大軍勢同士が戦うようなイメージをしていた広い草原ではなく、小山や林などが随所に点在するような場所でした。

島左近陣地跡

関ヶ原の合戦(1600年)から400年以上経ち当時と地形もかなり変わっているでしょうが、石田三成や島左近、小早川秀秋や徳川家康の陣地跡が史跡として残っているのが感慨深いです。

関ケ原古戦場(開戦地)

1598年、豊臣秀吉が死去し、その後、力を付けた徳川家康に不満を持った反徳川陣が挙兵。1600年、家康討伐のために毛利輝元を総大将に据えた石田三成の西軍と、徳川家康の東軍とが関ケ原で戦いました。

石田三成本陣跡から関ケ原を望む

石田三成は関ヶ原が一望できる標高200mの笹尾山に陣を張りました。そして、その麓には盟友の島左近が陣を引き、馬防柵も復元されていました。

島左近陣地跡より関ケ原を望む

開戦時には東軍、西軍ともに互角の兵力であったものの、ほぼ全軍が戦った東軍に対して、東軍に内応していた毛利家の吉川広家により15000人の毛利秀元軍は足止めを食らい、また小早川秀秋軍11000人は途中で東軍に寝返ったため、実際に西軍で戦っていたのは石田軍、宇喜多軍、小西軍、大谷軍など3万人弱でした。

小早川軍が加わり約12万人にもなった東軍に対し3万人の西軍では野戦で勝機がありません。実際に戦地を訪ねてみますと、石田軍の近くの林に島津軍の陣地跡がありましたが、島津軍はそこから一歩も動かなかったとも伝わります。

石田三成の陣から500m先にある島津軍陣跡

石田三成の本陣の周囲には、小西行長陣跡や宇喜多秀家陣跡や、少し離れた松尾山には西軍を裏切った小早川秀秋陣跡などが点在しています。

西軍の主力として奮戦そた宇喜多秀家の陣地跡

そして、石田三成の本陣跡近くには、石田軍や島軍が最期の激戦を行ったとされる決戦地跡がありました。

決戦地跡

こうして、日本を二分した戦いはわずか半日で徳川家康率いる東軍が勝利を収めました。

徳川家康本陣跡

関ヶ原の戦いの前年に、朝鮮出兵組の武断派七将(福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、蜂須賀家政、浅野幸長)が石田三成を訴訟する事件が起こりました。朝鮮出兵時の各将の戦行を三成が秀吉に讒言したことや、それまでの遺恨により起こった事件と言われています。結果、その七将は東軍に属し、石田三成と戦うことになりました。

義の人、大谷吉継のお墓を探すと寂しい場所に

もし、大阪城から出て豊臣秀頼が戦場に来ていたら、いや、大阪城に入った西軍の総大将の毛利輝元が関ヶ原で指揮をとっていたら。歴史にたらればは禁物ですが、島左近、小西行長、大谷吉継、直江兼続などの盟友に恵まれた石田三成ですが、親友の大谷吉継にも言われたように、やはりもう少し人望があれば…いや、コミュニケーション力があれば、と関ヶ原の戦場跡にいて思いました。逆にそれを利用して、天下を取る千載一遇のチャンスに、対豊臣でなく対三成という戦いに仕向けた家康は…織田信長(桶狭間の戦い)や豊臣秀吉、武田信玄などと戦った武将だけあり、やはり流石というべきでしょうか…

家康最後陣跡には、家康と三成の家紋が並ぶゴミ集積場が置かれていました。

なお、現地で関ケ原の合戦のことを学ぶなら、石田三成の本陣跡近くにあります関ケ原観光協会や、徳川家康最後陣跡近くにあります岐阜関ケ原古戦場記念館を訪ねられるのがお勧めです。

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