■川中島の戦い(上杉謙信vs武田信玄)

戦国史上に残る戦国武将同士の一騎打ち

関ヶ原の戦いや長篠の戦いなど、大名の主力同士の野戦は合戦の花であり醍醐味を感じますが、実際は、戦国の戦の多くが城攻めだったり調略などによる謀略戦が多かったようです。主力同士がぶつかり合えば、勝っても負けても自軍に甚大な影響が出ることが分かっているので、行うときは雌雄を決するときが多かったようです。そのような、戦国大名の主力同士がぶつかり合った野戦で有名な戦のひとつが川中島の戦いです。
応仁の乱後、室町幕府の権力が失墜し、各地の守護大名や戦国大名が各所で名を連ねて以降、各々で領地を拡大するために各地で争いや戦が起こる戦国時代となりました。林立した多くの戦国武将も、弱肉強食で淘汰され、多くの地や国を領土とする戦国大名に集約されていきました。その中で、越後(新潟県)の上杉謙信と、甲斐(山梨県)の武田信玄が、北信濃の地を巡りぶつかり合ったのが、川中島の戦いです。
゛勇者、敵を知る“とういことでしょうか、同地において1553年に両軍が相対峙したものの大きな合戦は起こらず、1555年にも、そして1557年にも対峙しましたが、小競り合いのみ行われ両軍とも引き上げていきました。そして各地の勢力図が名だたる戦国武将に限られ始めてきた1561年に、いよいよ両軍の主力が川中島で激突することになりました。 同年8月、上杉謙信が善光寺に到着。兵18000人のうち5000人を残して、13000人の上杉郡は川中島の南にある妻女山に陣取ります。
妻女山麓にあります上杉謙信が槍を突いて噴き出したと言われる泉。
妻女山山中には、上杉謙信が鎧を掛けたとされる松もあります。
海津城城主の高坂昌信より謙信出陣の報を受けた武田信玄も兵20000人を率いて甲府を出発。 その後、信玄は川中島の東にある茶臼山に陣取ったとか、北側の塩崎城に入ったなど、諸説あります。
茶臼山山頂
その後、両軍の膠着状態が続いたため、信玄は海津城に入城。
松代城(旧海津城)
そして9が9日、信玄の軍師である山本勘助の立案による啄木鳥戦法なる挟撃作成を行うべく、高坂昌信と馬場信房の別動隊12000人が妻女山に向かい、信玄本隊8000人は八幡平に布陣しました。 海津城からの煙がいつもより多いことに気が付いた謙信は挟撃を察知し、物音をたてずに妻女山を下山、千曲川も渡河し信玄の本陣に向かいました。
妻女山にある展望台
妻女山展望台から八幡平を望む
妻女山山頂付近にあります神社
上杉謙信の布陣を思わせるようなディスプレイもされています。
上杉軍が千曲川を渡河した場所とされる雨宮の渡し。現在は公園になっています。
実は、千曲川を渡河されたという場所は妻女山より西に約3kmほど行った場所で、そこから武田信玄の本陣までは渡河後、改めて東に11kmもあり、かなり慎重を要しながらも、結構な距離を夜間に移動していたことが考えられます。

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