国府台(こうのだい)合戦跡地を訪ねて〜里見軍vs北条軍

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関東最強の北条氏と対峙し続けた小国安房の里見氏

関東を掌握し、二百五十万石もの領土を有する北条氏に、戦国時代を通して対峙し続けた小国安房の里見氏。その両軍が激突した最大の合戦地跡が千葉県の市川市と松戸市にあります。

国府台合戦地跡入口

北条氏よりも長く続いた里見氏

江戸川を挟んで東京都江戸川区の対岸にある市川市。その江戸川に面した台地に里見公園があります。1479年に太田道灌が築いた国府台城の跡で、現在は園内には700本のバラが咲き(5月と10月が見頃)、桜の名としても有名です。そして、今から約450年前の戦国時代に、この国府台の地において里見氏と北条氏との大きな戦い(国府台の戦い)が二度行われています。特に二度目の1563年の戦いでは北条軍2万と里見軍1万2千が対峙し、名将の北条氏康と里見義弘が戦いました。

国府台合戦地跡
国府台合戦地跡の横にある野菊の墓の文学碑
国府台合戦地跡から陸橋を渡った所にある野菊苑からの景観。

結果、北条軍が大勝し、上総(千葉県中部)、に進出していた里見氏は安房国(千葉県南部)まで退くこととなりました。その後の三船山の戦い(富津市)で里見軍が北条軍に勝利し、この戦いにより里見氏の存在感が増し、1590年に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後、江戸時代には12万石超と関東最大の外様大名となりました。

相模・伊豆・武藏ほか7カ国に渡る250万石の北条氏に対して、安房と上総の一部を領有する里見氏は約30万石。約10倍近い領土差がありました。

 関東の覇者である北条氏に立ち向かった小国安房の里見氏。圧倒的な兵力を持つ北条軍に小国の里見氏が対峙できたのは、名将の里見義堯、義弘、義頼がいたことが大きかったと言えます。


国府台城跡(里見公園)

下総の国府が置かれ、下総国の中心地だった国府台。戦略的にも重要な地でありました。江戸時代に廃城後、昭和33年に里見公園として開設されました。
徳川家康が関東に入った後、廃城となった国府台城(跡)
清水が湧き出る羅漢の井。国府台城の水源とも伝わっています。
園内にある市川市最高標高地点。高さは30.1m。
討死した里見の将の娘がもたれて泣いて亡くなったと伝わります夜泣き石。
徳川家康が関東に入った後、廃城となった国府台城(跡)。

江戸時代のベストセラー「南総里見八犬伝」のモデルにもなった里見氏ですが、天下泰平の江戸時代になった後、江戸にほど近い外様大名だったということもあったかと思いますが、突然、安房国を没収され、3万石(実質は4千石と言われる)山陰の伯耆国(倉吉)に転封させられました。そして、1622年に主君が病死したが後継ぎがいなかったためにお家断絶となり、里見氏は滅びました。遠い祖国の安房に戻ることが夢破れた八人の家臣たちは、主君を追って切腹したと伝わっています。

里見公園の展望台からの展望。

そんな里見氏は今でも千葉県では慕われていて、里見公園という名が名付けられたのもその証なのかなと感じました。

里見公園園内には、詩人の北原白秋が住んだ家屋(紫烟草舎)が復元されています。
パートナーシティのドイツローゼンハイム寄贈のつるバラがあるバラ園。

強者どもが戦った合戦跡地にある里見公園では花が咲き、今は市民の憩いの場として親しまれています。

1668年建立。国府台合戦などの供養で立てられた矢喰村庚申塚。
江戸時代から続く江戸川を渡河する矢切の渡し(片道200円)。
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