小牧・長久手の戦い

織田信長が本能寺で倒れ(1582年)た後、明智光秀、そして賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り(1583年)勢いに乗る豊臣秀吉と、信長の次男である織田信雄が徳川家康と組んで戦った戦が小牧・長久手の戦いです。生涯で唯一とも言える豊臣秀吉vs徳川家康の戦です。

長久手古戦場公園
長久手古戦場公園入口
長久手古戦場公園〜実際の古戦場を縮景して作られた庭

織田信雄・徳川軍が約1万8千人に対して、約11万人と圧倒的な兵力を持つ豊臣軍。しかし、堅城の小牧山城に立て篭もる徳川家に対して、森長可が攻めるも敗戦。

長久手の戦いで討死にした森長可の供養塚の武蔵塚(長久手古戦場公園外)

そして、羽柴秀次、池田恒興、森長可、堀秀政らによる1万6千人の兵により徳川家康不在となっている家康の本拠地の岡崎城を攻めるべく別働隊が三河に向かうも、これも家康に見破られ、戦いにより池田恒興と森長可が討たれ敗戦。以後、膠着状態が続き、結果、豊臣秀吉に調略された織田信雄が講和したことで戦が終わりました。

池田恒興の討死にの場所と伝わる長久手古戦場公園の北側にある勝入塚

徳川軍と別働隊の羽柴秀次軍が戦った場所は、今は長久手古戦場公園として整備されています。

長久手古戦場という駅まであります。

ぷらっと徒歩で一周できる広さですぐ近くには大きなイオンがありますが、園内には池田恒興が戦死した場所と伝わる勝入塚や、公園から少し離れた場所にはポツンと森長可の武蔵塚があり感慨深いです。

池田恒興の長男の池田元助の討死にとされる場所の庄九郎塚。公園の南側にあり。

なお、長久手の戦いで池田恒興の次男の輝政は、父と兄の元助が討死にし、自分も自害しようとしたところを、家臣に「父上も兄上も、逃れて生きていらっしゃいますぞ!」という虚言により生き残り、後に姫路藩52万石の初代藩主となり、後世に残る姫路城を作ることになリます。

また園内の駐車場脇には、小さいながらも無料で入れる郷土資料館があるので、ぜひ立ち寄りたいです。

長久手町郷土資料館

さて、長久手古戦場公園を後にして近くの血の池公園へ。名前はおどろおどろしいですが、すでに池は埋め立てられていて土の地になっていました。ここにあった池で徳川軍の服部半蔵が刀を洗ったと伝わっています。

徳川家臣が血のついた刀や槍を洗ったと伝わる池があった場所。今は埋め立てられて公園となっています。

また、そのそばにはポツンと住宅街に長久手城跡があります。

小牧長久手の戦い時に徳川軍に付き、池田軍に敗れて戦死した加藤忠景の居城の長久手城跡。

そこから少し走ったところに国史跡の色金山歴史公園があリます。

ここは徳川家康が陣をはった場所で、家康が腰掛けたと伝わる床机石があります。

家康が長久手の合戦の際に腰掛けて軍議を開いたと伝わる床机石

小高い丘にあり、テラスも設けられていて眺めも良いです。周辺には、首塚や耳塚なども残っています。

色金山歴史公園

そして最後に小牧山城に。

小牧山は標高86mの小山ですが、平野にある独立峰のため周囲の見渡しがよく、小牧・長久手の戦い時にここに本陣を引いた徳川家康によって大改修が施され、特に深く掘られた空堀は、敵の侵入を遮ったと言われています。

小牧山城入り口にあります、土塁断面展示施設
小牧山城 土塁断面

また羽柴秀次軍が別働隊として三河に向かった際にも、豊臣秀吉軍本隊に気づかれることなく空堀を通り、秀次軍に奇襲をかけて勝利を収めたと言われています。

小牧山山頂へ向かう山道

そんな小牧山城ですが、今はそんな大掛かりな空堀などはよく分からず、少し坂を歩来ますが、やがて天守閣に到着。

小牧山城山頂からの景色

確かに道中はかなり山肌は急ではあリますが、大軍の豊臣軍で総がかりで攻めれば落とせない城ではない感じもしました。

小牧山山頂には小牧山歴史館が建っています(200円)
小牧山城城跡の天守付近からの景観

もちろん当時は今と違ってもっと広大な城だったとは思いますが、やはり戦巧者の徳川家康というイメージを小牧・長久手の戦いで秀吉はもちろん各武将に植え付けられたのは、その後の家康を鑑みるだに非常に価値ある戦いだったのだと思いました。

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