死を覚悟した、家康完敗の戦
1573年、西上をする武田信玄と徳川家康による戦いが、遠江の三方ヶ原が行われました。
徳川家康の居城の浜松城の北部にある二俣城を落とした武田軍は、そのまま西上。浜松城から討って出た徳川家康・織田信長連合軍との戦になりました。
西上する武田軍を背後から攻める予定だった徳川軍ですが、三方ヶ原にて既に陣形を取って待ち構えていた武田軍。徳川家康の動きを予測していたのか、諜報網による対応なのか、この辺りに武田信玄の恐ろしさを感じます。
徳川・織田連合軍の陣形と取り戦闘が開始されましたが、武田軍が圧倒し、徳川家康は浜松城に逃げ戻りました。
犀ヶ崖古戦場の近くには、徳川家康の身代わりとなり家康を浜松城に逃がした夏目吉信の碑があります。ちなみに、夏目吉信の子孫のひとりが、明治の文豪の夏目漱石です。
浜松城の戻った家康は、同城の城門を全て開ける空城の計を講じて、追撃してきた山県昌景を引き上げさせました。その夜、徳川軍が武田軍を追い、犀ヶ崖にて夜襲を行い、混乱した武田軍が犀ヶ崖の谷に滑落し、多数の死傷者を出したと伝わっています。
現在、犀ヶ崖古戦場跡には資料館があり、当時の様相を伝える資料や展示物があります(無料)。
そして、そのまま浜松城に向かいました。
1570年に浜松城に徳川家康が入城し、その後17年間、同城で過ごしました。家康後の城主の多くが出世したことから、出世城とも呼ばれています。
現天守は1958年に再建されたもので、続日本の100名城にも選ばれています。
城の無料駐車場から歩き、石の階段を登り、石垣を眺めながら城門に。天守門を潜ると天守があり、天守内には徳川家康や浜松にまつわる資料が展示されています(200円)。
本丸には、若き日の家康公の像が建っていて、徳川家康の苦難とその後に続く天下人への道を感じることが出来ます。
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