豊臣軍vs北条軍で殲滅戦となった悲劇の城
北条氏康の三男である北条氏照が、1587年ごろに同じ八王子市にあります滝山城から八王子城に拠点を移しました。以前に武田信玄に攻められた際に、滝山城の防衛の限界を感じ、八王子城に居を変えたと言われています。
1587年といえば、豊臣秀吉が九州征伐を行った年で、既に徳川家康と小牧・長久手の戦を行い、その後、家康と和議を結んだことからも、北条氏としては豊臣秀吉との戦を想定していたのかもしれません。
さて、八王子城ですが、本丸は麓の入口より約800mとのことですが、かなり山道を登りますので、おおよそ片道30分は見ておいた方が良いかと思います。
本丸への道を登っていきますと、最初に金子丸という広い場所に着きます。ここは、北条氏照の家臣である金子家重が守ったとされる場所で、敵の進入を防ぐ工夫がなされていたそうです。
1590年、小田原征伐の豊臣秀吉軍の別動隊である前田利家・上杉景勝軍がこの八王子城を攻めました。城主の北条氏照は小田原城に行っていたため、残った約3000人の城兵たちが応戦致しました。
さて、本丸までの道が少し急になり、柵門跡に到着します。この辺りで小休止を取りました。
急な山道を登り続けて、そして、やっと九合目に。やがて東屋がある曲輪に。
この曲輪で前田利家軍と北条軍が戦い、城兵たちは奮戦しましたが、なにせ相手は、後の五大老の二人、前田利家に上杉景勝、そして真田昌幸ら1万5千の兵。多勢に無勢でやがて各曲輪が落とされ、八王子城は落城致しました。
この曲輪から、景観が望めます。そして、八王子神社があります。
そこからもう一息登り、本丸跡に到着。
本丸跡は小さな広場になっていますものの、樹々に囲まれて景観は望めませんでした。
再び下山して、豊臣軍と北条軍が戦った本丸までの道を後にしました。
1000人以上の死傷者を出した激戦でしたが、もちろん今は静かな時が流れています。
実は八王子城は悲劇の城と伝えられているのですが、それは城内にいた婦女子が自刃したり、滝から身を投げたりして、小田原攻めで他に類をみない殲滅戦になったことから言われています。同城を守っていた城代の横地監物は落ち延びた先の村で切腹、城主で小田原城に詰めていた小田原氏照も小田原開城後に切腹しています。
さて、管理棟のところまで戻り、今度は右に方に続く道を進むと、大手門があり、そして御主殿跡へと続く古道があります。
そして、しばらく川沿いの古道を歩くと曳橋があり、橋を渡りますと城主の氏照の館があった御主殿跡があります。
御主殿に向かう途中に、400年土に埋まっていた状態で戦国時代当時のままに保存されている、400年前の築城当時の石垣を見ることが出来ます。これは、なかなかに素晴らしいです。
そして、復元された虎口を通り、同じく当時の門をイメージして建てられたという、御主殿入口の冠木門を潜りますと、御主殿跡に入ります。
今は何もない御主殿跡ですが、現在、発掘作業も進んでいて、復元整備も進んでいます。
生まれた時代、生まれた場所によって、同じ人でも人生は全然違ってきます。戦国時代に生まれたばかりに、負ければ自ら死を選ばなければならなかった運命に…。もちろん、武家ではなく生まれれば、戦に駆り出されたり、食べ物さえもままならなかったりと生きていくのさえ精一杯だったことでしょう。
いろいろありますが、平和な今の時代に生まれて、バイクでツーリング出来ることを幸せに思わないと、罰が当たるな…と本当に思いました。
八王子城ですが、本丸跡まで約800mということで甘く見て入山しましたら、かなりの上りの山道でしんどかったです。その割に、山城の方の道中には景観や史跡が少ないので、山水戸を登る苦労を考えますと、本丸跡は行かずに、御主殿跡周辺を見学されるだけで十分八王子城跡を巡れると思います。尚、大型の無料駐車場が完備されています。
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