未完の大城
1598年、豊臣秀吉の命で、越前の国(新潟県)から会津(福島県)120万石に加増移封された上杉景勝が、同地に会津若松城に代わる城を建設しようとしていました。それがこの神指城です。
場所柄、関東の徳川家康や東北の伊達政宗に対峙するために作られたなどと言われていましたが、実際には、越後から会津に移り、ここに国造りのための拠点を作りたかったようにも思われます。
惣奉行は、直江兼継ということで、1600年より築城が行われたそうですが、同年、徳川家康による会津征伐が行われ上杉勢と徳川勢との戦いが起こる寸前で、西で石田三成が挙兵したことを知り、現栃木県の小山市にて会津征伐に加わった各将と評定が行われ、徳川軍は急遽、西上し、石田三成を含む西軍と徳川家康の東軍による関ヶ原の戦いが行われました。
1600年10月21日に開戦した関ヶ原の戦は、同日のうちに終了し、徳川家康の勝利となった。そのことにより、同神指城は竣工に至りませんでした。
しかし、秀吉死去の年に米沢に移封。そして、神指城竣工の年に関ヶ原の戦いとは、皮肉なものです。もし、米沢に移封されずに上杉景勝が越後のままだったら、同様なことが起きたとして、小山評定の場所は三国峠あたりだったのでしょうか。でも、その一帯は真田氏の支配地域の近くですし、もし、そこでも関ヶ原の戦いが起きたとしたら、関ヶ原に上杉軍が現れたのでしょうか。歴史にifはありませんが、関ヶ原に上杉軍…想像するだに興味深くは感じます。
現在は、当時もあったと思われる、城の鬼門に位置したといわれる、国の天然記念物の高瀬のケヤキがその名残りとして残っています。樹齢500年とも言われ、幹囲が11.7mの巨木を見るだけでもここに来る価値はあると思います。
関ヶ原の戦の翌年の1601年に、上杉景勝は米沢30万石に移封。神指城は破却されました。
上杉家は大幅な減封ながら120万石時の家臣を解雇せずにそのまま維持し続けたため、藩政は大変苦しくなり、その後、約200年後に米沢藩9代藩主上杉鷹山の藩改革により、米沢藩は復活することになります。
この城も、そんな歴史の中に生まれ消えたひとつですが、会津の栄華を描いていた上杉景勝の夢の一端を垣間見ることが出来る場所です。
尚、同城跡の近くに、1868年の新政府軍と会津新選組が戦った場所があり、如来堂があります。関ヶ原の戦いの後、268年後に幕府軍が討伐を受けるという形になった歴史の糸を見て、歴史の流れを感じることが出来ます。
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