織田信長、義兄弟との戦い
1570年4月に織田信長軍が越前の朝倉義景に向かって兵を向けました。そこで織田軍と同盟を組んでいた浅井長政が昔より朝倉氏とのよしみから織田氏を裏切り、織田軍を背後から挟撃。殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の奮戦もあり、窮地を脱した織田信長は本拠地の岐阜に戻った後、取って返すように同年6月、浅井氏の居城である小谷城に攻め入りました。
虎御前山
小谷城の南西にあります虎御前山に布陣。その後、信長は小谷城と姉川を挟んで南側にあります横山城を包囲し、信長は竜ヶ鼻(茶臼山古墳)に布陣。援軍の徳川家康軍が同地に到着し、また、浅井氏の援軍の朝倉氏も小谷城の近くに到着。
竜ヶ鼻(龍ヶ鼻峠)
そして6月28日の早朝に姉川を挟んで戦が開戦。兵数は織田・徳川軍の方が多かったとされているが、当初は士気の高い浅井軍が織田軍を攻め込んでいたものの、朝倉軍に攻勢だった徳川軍が浅井・朝倉軍を横から攻め、浅井・朝倉軍は配送し。織田・徳川軍が勝利しました。
姉川の北に広がる田園
織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の両軍で20,000人以上の兵が戦い、また1,000人以上の死者も出たということでかなり広範囲での戦いだったと思われますが、現地にいきますと、主戦場でした姉川の北側は田畑が広がっていました。
血原公園
その田畑の中に戦場の一つだ想われます場所には血原公園(駐車場あり)という、まさに戦の激しさを象徴するような名の公園があります。
血原公園
現地には、血原や血川などの地名があり、多くの兵の血が流れたのではないかと思われます。血原公園の近くには姉川古戦場跡の碑が立っています。
また、血原公園から東に少し行った姉川沿いの場所にも、姉川古戦場の碑が立っています。こちらの碑の方はかなり立派です。
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