「戦国時代の関東の山城に本格的な石垣の城はない」という定説を覆した城
群馬県の太田市にある235.8mの金山に作られた山城の跡で、日本百名城にも選定されています。1469年に同地の豪族の新田(岩松)家純によって築城され、戦国時代には岩松氏の重臣であった横瀬氏(のちの由良氏)が城主となりました。由良氏は越後の上杉謙信と相模の北条氏康の勢力の狭間の地で、うまく従属関係を保ちつつ、上杉謙信や、甲斐の武田勝頼の攻城にも城が落ちることはありませんでした。しかし、1584年に関東の覇者の北条氏の謀略により北条氏の支配下となり、1590年の豊臣秀吉による北条征伐により廃城になりました。関東の七名城にも数えられています。
北関東自動車道の太田桐生ICを下りて、国道122号線に入り南へと進みます。ちなみにこの太田桐生ICに近くには、金山城の出城だったらしい矢部城の跡(土居のみ残っています)があります。しばらく走りますと、右側にこんもりとした金山が見えてきます。そして、国道から金山方面に右折して、県道321号線へと入ります。山中は意外と車通りも多く爽快さは少ないですが、プチワインディングがあって雰囲気はいいです。
そして、金山城へと向かいます金山城跡線に入ります。
金山城跡線を走って行きますと、やがて金山城址 展望駐車場に到着します。結構、広い舗装駐車場です。ここの展望台から太田市街を眼下に望むことができます。
駐車場にバイクを置いて、本丸跡に向けて歩いて行きます。ちなみに本丸側(東側)と逆に行きますと西城があり、好景観を望めます。東側へ向かいますと、まず、金山城の石碑があり、山城を上る気持ちが高騰してきます。
尾根伝いに階段と砂利道が分かれていますが、しばらく歩きますと両道は再び交差しますので、どちらから行っても大丈夫です。やがて、堀切が現れます。
西矢倉台西堀切 西矢倉台下堀切
堀切とは、尾根伝いに攻めてくる敵に対して、それを防ぐために人工的に作った谷のことで、通常は木橋などを掛けて通れるようにしつつ、攻城戦時には橋を壊し、敵が谷を越えないようにします。ちなみにこの西矢倉台西堀切は、攻城側の西側で深さが3.4m、本丸側の東側で7.4mの深さがあり、容易に越えられない上に、弓矢や銃などで下方に位置する敵に向けて攻撃を仕掛けることも出来ます。そして、そのまま進みますと、馬場下通路があります。土橋を渡りますと立派な石積みがあり、一瞬その威圧感に圧倒されます。
馬場下通路の左側には物見台下堀切があり、狭い通路の中で上部から弓矢などで攻撃されると前に進めず、すでにこの時点で、大軍を持って攻めづらい造りになっているのが良く分かります。
なお、この馬場下通路は若干迷路っぽくなっていて、現在も案内板が無いと本丸方面への道順が分かりづらい状況ですので、攻めてきた敵を錯乱するのに有効的だったと想像できます。
馬場下通路 馬場下通路
さて、馬場下通路の上には物見台があります。ここから上毛三山の好景観が望めますが、交戦時は、ここから敵の動きを見張っていたのかもしれません。
戦闘中には落とされたと思われる木橋を渡りますと、城兵が待機していたと思われます馬場曲輪跡があります。
馬を繋げる曲輪がある馬場曲輪の広場を過ぎますと、大きな堀切の大堀切があります。掘り幅、高さ共に金山城で最大のもので、敵の攻撃を防ぎました。まだ、この後に虎口があるのですから、これはもう攻める方は大変過ぎ。難攻不落だったということがとても分かります。
そして、大堀切の横には、月ノ池があります。大堀切から虎口に至る前に、一時の風情を感じることができます。
そして、月ノ池を過ぎますと、いよいよ大手虎口が見えてきます。復元された石垣とはいえ、その石垣に囲まれた虎口の圧倒感に威圧されます。石垣の城が少なかったであろう関東で、これを見た武将たちは驚いたに違いありません(というかここまでたどり着けたのかは分かりませんが…)。
虎口の周囲には曲輪があり、当時はここは生活の場であったようで、戦が始まれば、攻防戦として城兵がここで待機していたと思われます。ちなみに大手虎口にはアゴ止め石という技法が使われていて、水が虎口上部に溜まって石垣が崩壊しないように雨水を効率的に排出するような仕組みをとっていました。
そして、虎口を抜けますと、大きな日ノ池があります。
山城に必要不可欠で、攻城戦や籠城に必須の水。特に高度のある山城はこの水をどう確保するかが重要なのですが、かなり大きな池で水を貯水できたと思われます。また、近くに井戸も別にあることから儀式的なことに使われていた可能性もあるようです。そして、日ノ池を後にして高台を上りますと南曲輪休憩所があり、歩いてきた方がここで休んだり、のどを潤したりしていました。日本百名城のスタンプもここにありました。
ここからの景色も良く、また、近くには金山城の日本百名城の石碑がありますので、記念撮影にはいい場所です。
日本百名城の石碑 南曲輪からの景観
さて、頂上まではもう少しです。休憩所先の細い階段道を上りますと、視界が広がり、右に本城跡、左に金山の大ケヤキがあります。
本城跡 金山の大ケヤキ
そして、目の前に本丸跡に建ちます新田神社が石段の奥に見えてきますが、石段には上らずに、その左下にあります赤い鳥居が続きます浅間神社を参拝。そして新田神社の下を周り込むように回って行きますと、左に竹藪があり、二の丸跡という石碑がありました。
そして、ちょうど、新田神社の裏に回りますと、当時の野積みの石垣がある本丸残存石垣があります。いやー、もう素晴らしいです。この石垣の前の広場は武者溜まりだったらしく、当時の武士たちもこの石を見ていたかと思いますと、とても感慨深いものがあります。
そして、新田神社の裏手から表へ向かって道があり、武者走りという碑が立っていました。有事の時には、武者溜まりにいた武士たちがここを走っていったのかもしれませんね。
武者走りの碑 武者走り
そして、再び本丸跡に建つ新田神社の表に付き、石段を上って(脇にバリアフリー用の板が敷かれています)参拝致しました。ここからも樹々の間から好景観を望めました。
新田神社から来た道を戻り、大手虎口から帰路は脇道を通ってショートカットをして駐車場に。往復、約30分のお城跡巡りでした。いやー、なかなかに素晴らしい城跡で、とてもよかったです。しかし、訪ねてみて、攻城する側も進むにつれて(小谷城のような存亡をかけた総力戦で無ければ)戦意を無くす城だなぁ…と思いました次第です。
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