ヤマトタケルと二つの東海道
ヤマトタケルも通った足柄峠と、天下の険とも言われた箱根峠。両峠から東は坂東と称され各々東海道を構成した名峠です。旅は今も昔も同じ。両峠を走り比べて楽しんでみました。
ヤマトタケル(72〜113年)が東征の時に通り、「あづまはや(ああ我が妻よ」と嘆いたと言われる足柄峠(759m)。今も風情が漂います。東名高速道路の大井松田ICで降りて、まずは日本の滝百選にも選ばれている洒水の滝に。静かな山中に流れる上品な滝で、赤い橋とのコントラストがいいです。
そして次に矢倉沢関所跡に向かいます。江戸時代に小田原藩が建てたという関所らしいですが、今は碑があるのみ。ただ、県道から外れた細い路と集落が当時の往還を偲ばせてくれます。
さて、再び県道78号線に戻ります。この県道は別名「金太郎富士見ライン」と呼ばれ、沿線には金太郎にまつわるものが多く点在しています。特に南足柄市には金太郎関連の看板や像が多く、町ぐるみで金太郎を推している感があります。金太郎の遊び石や金太郎の力水ほか、金太郎の生家跡までがある。そういえば、確か小山町にある金時神社も金太郎の生家跡地に建っているとか…
さて、足柄峠に向かってヘアピンが続き高度が上がっていきます。秋には沿道が真っ赤に染まり素晴らしい紅葉が望めるでしょう。足柄万葉公園を過ぎ、古事記に出てくるヤマトタケル助けたという白い鹿の像がある足柄明神を参拝した後、足柄峠に。
古来飛鳥時代より、五畿七道駅路の一つとして政治の中心の飛鳥(奈良)から東国へと向かう東海道が設けられていました。東海道の相模国(神奈川県)と駿河国(静岡県東部)を行き交う足柄路(足柄古道)の国境の峠が足柄峠で、足柄峠から東は坂東(関東)と呼ばれていました。
平安時代の800年、富士山の噴火(延暦噴火)による降灰で足柄路が通行出来なくなったため、降灰の影響がない南の箱根峠を通る箱根路が整備されることとなり、その後、復旧した足柄路と共に、しばらくは相模国と駿河国の間に二つの街道が並存することとなりました。
899年、足柄峠に関所が置かれていましたが、鎌倉時代初期には無くなっていたらしいです。鎌倉時代に入ると、京と鎌倉間で人の往来が多くなり、武士たちの間では箱根権現(元箱根:現箱根神社) 、伊豆山権現(熱海:現伊豆山神社) 、三嶋明神(三島:現三嶋大社)を巡る三所詣が盛んとなったことから、距離が近い箱根路(平安・鎌倉古道)の利用が進むこととなりました。
鎌倉時代の後の南北朝時代1336年に、足柄路の西側(小山町)と箱根路の西斜面で南朝軍の新田義貞と北朝軍の足利尊氏による箱根・竹ノ下の合戦があり、その後、室町時代にかて、後の江戸時代の東海道に繋がるもう一つの三嶋から箱根峠へと至る箱根越えの道が開かれました。戦国時代、同道は主要道となり、北条氏は西からの守りの強化のために山中城を築城する際にこの道を城中に入れ込み、その後、元の平安・鎌倉古道の方の箱根路は寂れていきました。
江戸時代になり、徳川家康が五街道を整備し、この道と重なるように東海道も整備され、1619年に芦ノ湖畔に箱根関所が設けらました。東海道にある五十三の宿場町の中で、相模湾にある小田原宿から標高846mの箱根峠を越えて次の芦ノ湖畔の箱根宿まで約四里(約5km)。特に難所の橿の木坂は130mで40mもの高低差があるという急坂で、大雨が降ると足が沈んでしまうほどだったといいます。1680年に幕府により街道に石畳が敷かれ、今もその佇まいを見ることが出来ます。
足柄路の方は急な箱根路に対して勾配が緩やかだったこともあり、箱根路の迂回路として多くの旅人が行き交ったそうです。その後、江戸時代には東海道の脇往還となり、足柄峠は矢倉沢往還の峠として、富士山や大山、最乗寺への参詣道として賑ったといいます。なお、足柄峠の歴史は古く、古事記には日本武尊 ( ヤマトタケル ) が、東征の帰りに足柄 峠を通ったという記述が残っています。
ヤマトタケルの伝承があるほどの歴史ある足柄峠で、今は静かな場所ながら、関所跡を見つつ当時は多くの旅人達が峠を往来していたんだろうな~と思うと感慨深くなります。ちなみに、近くの足柄城址からは富士山が一望できます。そしてそのまま新羅三郎義光吹笙之石を横目で見つつ富士見ラインを下り、乙女峠へと向かいました。
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