おんな城主 直虎と赤鬼の直政
◇井伊直虎
井伊家23代と24代を繋いだ女城主です。
井伊家22代の井伊直盛の一人娘として生まれました。22代の直盛は井伊家を継ぐ男子がいなかったため従妹で直虎の許嫁の直親に井伊家の家督を継がせるつもりでしたが、その直親の父が今川氏によって殺され、当時9歳だった直親も命を狙われたため、直親は内密に身を隠すこととなりました。直親が身を隠したことを知らない直虎は、直親が亡くなったものと思い龍潭寺で出家をします。
その11年後、ほとぼりが過ぎたのを見計らって20歳になった直親が井伊谷に戻ってきました。その後、22代直盛の養子となり許嫁だった直虎とは違う女性と結婚して直親は23代目の井伊家の当主となりました。その女性との間に生まれたのが、後の24代当主となる井伊直政です。
1560年、桶狭間で今川方として戦った22代直盛が戦死。23代の当主となった直親も家臣に誅殺され井伊家は存亡の危機に陥ります。
1565年、龍潭寺の住職の計らいで、幼く、そして身を隠していた直政の後見人として、直虎は井伊家の領主となります。その後、直政を徳川家康に仕えさせて、その活躍を見届けた後、直虎は1582年にその生涯を閉じました。
2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公である井伊直虎。戦国の世に稀な女性で城主となった武将で、徳川四天王の井伊の赤鬼と恐れられた井伊直政の養母でもあります。その直虎が領主として治めていたのが、現在でいう静岡県浜松市の引佐町井伊谷で、古来から「井の国」と呼ばれているところです。
新東名高速道路と三遠道路が交わる浜松いなさICを降りれば、そこはもう「井の国」です。
数キロ走ると遠州の古刹、龍潭寺に到着します。この龍潭寺は井伊氏歴代が祀られていて、井伊直虎も寺内の墓所に眠っています。境内には拝寺した大名が通された部屋から仏の国の西に向くと、必然的に井伊家の墓所と霊堂の方を見るように作られている国指定名勝の庭園や、井伊軍の赤備えの具足などを見ることが出来、戦国時代の騒乱をお家のために生き抜き、400年以上も前に同じこの景色を見ていた直虎の息吹を感じることが出来ます。
なお、龍潭寺から隣りの井伊谷宮まで続いている「井の国 歴史の小径」は、閑静で散策にお勧めの道です。
ちなみに、この井伊の地から浜松屈指のオレンジロードという山岳路が西に延びていますので、是非。
さて、浜松といえば国内二輪3メーカーの発祥の地で、現在はスズキ株式会社の本社がある街でもあります。戦後、二輪のほかいろいろな産業が発展しました。浜松は工場や商業施設が多いことから商業都市のイメージが強いですが、実は観光名所が多いところで、浜松城、浜名湖、中田島砂丘、エアパーク、かんさんじ温泉など、ツーリングスポットも数多くあります。
観光名所は浜松城下の市街地に多いので旅の風情に欠ける部分もありますが、機動力に長けたバイクならではで、二輪車各メーカーの発祥の地や二輪洋品メーカーの本社ショップ、スズキ歴史館(見学予約制)などを巡るのも楽しいです。ちょっと足を伸ばして渥美半島などを周れば、旅情が高まること請け合いです。
日本で二番目に面積が広い浜松市。北はなんと長野県の飯田市に隣接しています。
浜松という地名は、1570年、この地にあった城に入城した徳川家康が、濱松城と城名を改めたことに起因します。そして、その2年後に、当時戦国最強とうたわれた武田信玄軍が上洛中に遠州に侵攻。迎撃する徳川軍と三方ヶ原で戦いが起こり、武田騎馬隊の前に大敗した徳川家康は浜松城に戻り籠城戦を覚悟しましたが、武田軍が追撃を止めて西進を始めたため、九死に一生を得ました。
その後、武田家が滅び、武田家の旧臣たちの多くを配下に持った井伊直政は、武田軍の勇将、山形正景の赤色の軍装を継承しました。豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いでは、その勇猛さに井伊の赤鬼と呼ばれました。
浜松は江戸時代には宿場町として栄え、明治維新後は浜松県を経て静岡県に合併。戦後は商業都市として発展しました。
さて、浜松のぐるめと言って真っ先に思い浮かべるのは鰻でしょうか。今から100年以上も前に浜名湖で鰻の養殖を日本で初めて成功させたことで、鰻の養殖発祥の地となり、浜松ぐるめとして全国に広がりました。なお、東京と大阪の間に位置することから、とろとろ系の関東風とパリパリ系の関西風の両方の蒲焼が食べられるのも特徴的です。こだわりがある方は、お店に入る前に確認された方がいいようです。
一方、昨今、浜松ぐるめとして台頭してきた浜松餃子は、戦後に浜松駅前に構えられた屋台の餃子店が発祥と言われています。今では、その消費量日本一を宇都宮市と争うまでに至っています。
そのほか、舞阪港付近ではしらす丼が、冬場には三ケ日のみかんが美味です。また、市内には美味しいスイーツのお店も点在していて、道中の各所で楽しめます。
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