■山中城・韮山城~豊臣軍 vs 北条軍

約450年前、戦国時代の日本では各地で武将たちが覇権を争う戦 いが繰り広げられていました。その、“兵どもの夢の跡”を今に残す城 跡・古戦場を巡り、彼らの想いや戦い方に触れる旅に出てみました。

堀の中を敵兵が自由に動けないようにする「畝堀」や「障子堀」が残り、攻城戦の難しさが感じ取れます。
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数時間で陥落した山中城と、三カ月守りきった韮山城

国道1号線を箱根から三島へと走る途中に山中城跡があります。

戦国時代の関東の覇者、北条氏の重要拠点を担った山城で、1590年3月、豊臣秀吉本隊との戦いの火蓋が切られた場所です。北条氏は、始祖の北条早雲が伊豆国、相模国(神奈川県)を支配し、その後、二代目氏綱、三代目氏康により関東の大部分を支配する大大名となりました。しかし、五代目氏直の時代は既に戦国の世が秀吉によって終結されようとしていた時であり、その流れを見誤った北条氏は豊臣秀吉と対決することになります。

山中城~山城だったのを対豊臣用に要塞化し ましたが、豊臣軍の猛攻を受け、数時間で落城。戦後は廃城となりました。同城は街道(現国道1号)を城内 に取り込み関所的な役割もしていました。 三島方面に国道を下ると視界が開け駿河湾が一望出来ることから鑑みて、 敵の動きもつぶさに見て取れたと思 われます。

対戦時の国力は、北条氏が9か国240万石に対し、豊臣氏の支配地域は 58 か国で約 1700万石。兵力は北条軍の5万に対し豊臣軍 22 万。豊臣軍の分団が北条氏の支城を攻撃し始める中、3月 29 日に豊 臣軍本隊約7万の兵が4千の北条軍が守る山中城を攻撃。僅か数時間で山中城は落城し、結果、豊臣軍本隊を難なく北条氏の本城がある小田原に入れることとなり、その約三か月後の7月5日、北条氏直が降伏。関東の覇者北条家は終焉を迎えることとなりました。

三ノ丸宗閑寺境内には、敵将同士の山中城城主 の松田康長ら北条軍の城将と豊臣方先陣の一条直 末の墓が並んでいます。境内には一条家のものと思 われる丸に釘抜紋が入った碑石も横たわっていました。

山中城は、約 25 万平米(東京ドーム約5個分)と山城としては広大な面積を持ち、大事な緒戦を担った城にも関わらず、何故、短時間で落城したのでしょうか。ちなみに、山中城から僅か 15 キロ離れた所にあった韮山城 は、5万の豊臣軍に対して3千6百の北条軍が3ヶ月にも渡り交戦し、小田原城開場の直前まで持ち堪えました。

山中城戦は両軍の兵力の差もさることながら、秀吉の跡継ぎとされていた豊臣秀次が総大将に据えられた秀吉直轄の本隊だった秀吉軍に対し、北条軍は、援軍に来た北条氏勝や城将の松田康長らが迎えるということで、守るのか戦うのか本城(小田原城)の方針も定まっていなかった事も考えられ、両軍の士気の高さが違ったことが短時間で決着がついた要因だったような気がします。

韮山城~北条早雲がその生涯を過ごした城で、後に三代目の北条氏康の四男北条氏規が城主とな、小田原城開城の直前まで豊臣軍の猛攻を凌ぎました。戦後、謹慎の後、氏規は河内国の狭山城主となり、その子孫は明治維新 まで存続しました。

なお、山中城は、戦後廃城となったものの1930年に国指定史跡に指定され、その後日本百名城にも選定され、その佇まいを今も忍ばせています。

◇立ち寄りスポット

三島スカイウォーク〜全長400mの 日本一長い歩行者専用吊り橋。入場料が 1000円もする割には橋だけな感じですが、 山中城に近く外の施設は無料で入れるので休憩がてらに寄るのもいいかも、です。

旧箱根街道石畳~山名城跡のすぐ脇に石畳の旧箱根街道が残り、今も風情を楽しめます。

韮山反射炉〜世界遺産。日本に現存する唯一の実用反射炉で、徳川幕府が他国の侵略を危惧し大砲を鋳造するために建造。観覧料は500円ですが建物自体は外からも見れます。

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