東海道を往く…日本橋~府中宿の旅
江戸時代、旅人たちが行き交った東海道。
街道沿いの歴史をなぞりながら、歌川広重の浮世絵の場所を探しつつ、当時から今なお好景勝地の日本平までの東海道中鉄馬毛を楽しんでみました。
(※旅籠…一般の旅人が泊まる宿。大名などは本陣に泊まり、大名行列時など人数が多い時は脇本陣も利用されました。)
日本橋「朝之景」~”日本橋七つ立ち(午前4時頃)…”と謳われたように、旅人たちは早朝出発が常だったようです。
江戸と京を繋ぐ東海道。1601年に徳川家康により整備され一里塚や松並木などが設けられました。そして、1802年に十返舎一九著の江戸時代最大のベストセラー「東海道中膝栗毛」が、1833年に歌川広重の「東海道53次」の浮世絵が出版され、東海道旅ブームを起こしました。
今、その道中は、また浮世絵の場所はどのような色を残しているのか。起点の日本橋から富士山眺望の名所薩埵峠を越え府中宿までの十九宿をバイクで訪ねてみました。
※高輪大木戸跡~国史跡。家中の方はここまで来て旅人を見送ったそうです。
早朝、日本橋を出発し、松並木ならぬ都心の信号並木を抜けて、最初の宿場町、品川に到着。
1.品川「日之出」~八つ山橋。当時、鷹狩場だった御殿山は、御殿山の丘公園にその風情が残っています(旅籠数:93軒)
今もその面影を残す旧街道沿いの商店街には本陣跡公園や遊郭跡碑などがあり、当時の色を感じる事が出来ます。
そして暫く進み赤い趣のある鎮守橋が架かる荏原神社を越えて、泪橋を渡り鈴ヶ森刑場跡に。
泪橋を渡り鈴ヶ森刑場跡に。愛しい人に会いたい一心で放火をした八百屋お七ら江戸時代に10万~20万の罪人が処刑されたと言われています。
2.川崎「六郷渡舟」~江戸発で最初の川越え。川崎大師への参拝者も多かったらしいです(旅籠数:72軒)。
3.神奈川「台之景」~絵中の「さくらや(現田中屋)」では坂本龍馬の妻が働いていました(総家数:58軒)。
4.保土ヶ谷「新町橋」~天王町駅前公園に絵に描かれた帷子橋を模した橋があります(旅籠数:67軒)。
六郷大橋を渡り、神奈川、保土ヶ谷の宿跡を通り、難所の権太坂に。この坂は行き倒れた人馬を葬った投込塚があるくらい急坂だったらしいです。そして、膝栗毛の弥次さん喜多さんが最初に泊まった戸塚宿に着。
5.戸塚「元町別道」~大山道、鎌倉往還の分岐点。今は往来の多い橋があるのみです(旅籠数:75軒)。
現在の東海道中に江戸時代から残っている史跡は少なくて、特に都会部はほとんど残っていませんが、浮世絵の絵を見ながら当時をイメージして散策するのは楽しく、リュックを背負って史跡を見ている方々を多く見かけました。
6.藤沢「遊行寺」~描かれている大鳥居は、今はなき江の島弁財天一の鳥居(旅籠数:45軒)。
藤沢宿は浮世絵に描かれた遊行寺が今も残っています。但し、浮世絵の場所は藤沢橋あたりのようです。
続いて丸い高麗山が特徴の平塚に。
7.平塚「縄手道」~縄手道とはあぜ道のことです。古墳か?と思うような丸い山が浮世絵にも描かれています高麗山です(旅籠数:54軒)。
平塚本陣跡近くの公園内に、ポツンと「番町皿屋敷」のお菊の墓跡があります。同話は怪談ではありますが、濡れ衣を着せられた悲話でもあります。
次の大磯には、仇討の曽我兄弟の兄祐成と僅かな時を過ごし、祐成の死後出家しその生涯を祐成の供養に注げたという虎御前の史跡が残っています。
8.大磯「虎ヶ雨」~日本三大仇討の曽我祐成の悲恋の恋人、虎の涙雨を虎ヶ雨と呼ぶそうです(旅籠数:66軒)。
そして、相模国(神奈川県)で最大の宿場町の小田原に。
9.小田原「酒匂川」~酒匂川を渡河後、天下の険の箱根に備え泊まる旅人が多かったそうです(旅籠数:95軒)。
次の宿場の箱根までは東海道最難所の急な山道を登ることになるため、江戸川から出発した旅人たちは箱根越えに備えて、ここで宿泊したようです。
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