義元、信長、家康の分岐点
天下取りに最も近いと言われた三国領主の今川義元に対峙する小国尾張の織田信長。家康を含め三武将の運命が変わった桶狭間の地を訪ねてみました。
戦国の乱世に終止符を打ち、その後265年にも渡り太平の江戸時代を開いた徳川家康。1545年に岡崎城で生まれ、6歳で織田家の人質に。そして8歳の時に今度は敵方の今川家の人質となりました。
1560年、駿河・遠江・三河の三国を領する今川義元は25,000人の大軍を率いて東海道を西上し、道中にあります織田家領地の尾張に攻め込みました。迎え撃つ織田信長軍の軍勢は約3,000人。今川軍の先鋒して進軍していた松平元康(徳川家康)は、織田軍の砦に囲まれていた大高城に兵糧を届けた後、周辺の砦を攻撃し陥落させていました。
一方、後に続く今川軍本隊では各所での戦勝を祝い、謡をうたい休息をしていました。
午後になり急に豪雨が降り出し今川本隊が雨宿りをしている中、織田信長軍が奇襲をかけ、雨でぬかるみとなった田地で足を取られている今川本隊の兵を斬り倒し、やがて織田軍の毛利新介によって今川義元が討ち取られました。
徳川家康は義元が討死にしたとの報を受け、岡崎に戻り、大樹寺で自害しようとしたところを住職に制され、やがて今川軍が撤去した岡崎城に入城しました。
そしてその翌年に、織田信長と同盟を結び、39年後に関ヶ原の戦いで勝利した家康は、その3年後の1603年に江戸幕府を開きました。そんな徳川家康の最初のターニングポイントとなった桶狭間ですが、訪ねてみると桶狭間合戦場や今川義元討死の地などが各所にあり、実際、どこが戦場跡で、また義元が討ち取られた場所なのかは今となっては正確には分かりづらいようです。
その中でも、桶狭間古戦場公園と桶狭間古戦場伝説地、大沼周辺には桶狭間の戦いの史跡が点在しています。
各所が住宅街に点在しているので風情は薄いものの、ここで約460年前に今川義元、織田信長、そして徳川家康の各将の分岐点ともなる戦が行われたことを思うだに、感慨深いものが感じられる場所であります。
徳川家康の生誕の地「岡崎」
家康公生誕の地の岡崎。実は、家康ゆかりの大樹寺の門から岡崎城が見えるよう約3kmの直線上に岡崎の方々が遮蔽物を作らなかったというビスタラインがあります。岡崎市で生まれた八丁味噌グルメもお勧めです。
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