近畿(日本100名城)

姫路城(兵庫県)

お城県ともうたっています兵庫県の5城、そして滋賀県の4城と、各々国宝の現存天守を含めて多くの100城があります近畿エリア。やはり、戦国時代の中心となった地だけのことはあるエリアです。日本の城の代表格でもあります姫路城や豊臣秀吉の居城の大阪城、京都の二条城など大規模なお城がある一方で、小谷城や安土城など、歴史を彩ったお城の跡も選ばれています。また、昨今、日本のマチュピチュとして観光名所となっています竹田城も100名城に選ばれています。

1.小谷城 2.彦根城 3.安土城 4.観音寺城 5.二条城 6.大阪城 7.千早城 8.竹田城 9.篠山城 10.明石城 11.姫路城 12.赤穂城 13.高取城 14.和歌山城

■滋賀県

49.小谷城 (滋賀県長浜市)

歴史を紡ぐ浅井氏の居城

小谷城跡

北近江の領主の浅井氏により標高495mの小谷山に築かれた城で、浅井氏の居城となりました。堅固な山城で、1570年に姉川の戦いで勝利した織田信長は羽柴秀吉を前線に配置したもののなかなか攻略出来なかった中、1573年に支城の調略が成功し、包囲網が出来たことから一気に攻略。浅井氏の援軍に来ていた朝倉氏を滅ぼした後、小谷城を攻城し、落城させました。浅井長政と妻で信長の妹であるお市の方と三人の娘たちは秀吉に助けられ、後に娘たちは豊臣、京極、徳川に嫁ぎ、長女の茶々は豊臣秀頼を産み、三女の江は徳川秀忠の妻となり三代将軍の徳川家光を産みました。浅井氏の後、同地に入った羽柴秀吉は長浜城を築城し、小谷城は廃城となりました。日本五大山城のひとつ。国史跡。

50.彦根城 (滋賀県彦根市) [現存12天守・国宝]

明治天皇が保存を命じた城

彦根城

1622年に彦根藩主の井伊直継により築城。以後、井伊氏が城主を務めました。明治時代に入り、各城が廃城令で破却される中で、彦根城は巡幸で訪ねた明治天皇より保存を命じられ、破壊を逃れました。現存天守として、天守は国宝に指定されています。

51.安土城 (滋賀県近江八幡市)

織田信長が作った絢爛豪華な城

安土城跡

1576年に、琵琶湖東岸の安土山に織田信長が、家臣の丹羽長秀に命じて築いた城。地下1階地上6階という大規模な天守を備え、他に類を見ない絢爛豪華な城であったと伝わっています。1582年に本能寺の変にて信長が倒された後に焼失。現在は石垣のみが残っています。国特別史跡。

52.観音寺城 (滋賀県近江八幡市)

南近江六角氏の居城

観音寺城跡

標高432.9mの繖山に築かれた戦国時代最大級の規模の山城で、六角氏の居城となっていました。室町時代の応仁の乱では、3度に渡り観音寺城で攻城戦が行われました。1568年に織田信長が攻めてきた際に城主の六角義賢が逃亡し、無血開城されました。国史跡。

■京都府

53.二条城 (京都府京都市)

徳川幕府の始まりと終わりの場所

二条城

徳川家康が上洛時の場として1603年に築城し、将軍就任の祝賀の儀が執り行われました。1626年に、徳川秀忠、家光の招きに応じて後水尾天皇が同城に行幸(天皇の外出のこと)するために大増築が行われました。1634年に家光が多くの兵を率いて入城した後は、二条城に将軍が訪れることは無くなりました。建物が老朽化していく中、1750年に落雷により天守を焼失しました。1867年、二条城において大政奉還が行われ265年に渡る徳川幕府が幕を閉じました。現在、二の丸御殿が国宝、ほか国重要文化財が多数あります。国史跡。特別名勝。世界遺産。

■大阪府

54.大阪城 (大阪府大阪市)

豊臣氏の居城

大阪城

大阪の石山本願寺が焼失した跡に、豊臣秀吉が築城。1598年に豊臣秀吉が死去した後は、子の秀頼の居城となりましたが、1615年の大阪冬の陣で落城。豊臣氏滅亡後、1619年からは幕府の直轄領となりました。1620年より徳川秀忠により城の再建工事が行われ、1629年に完成しました。江戸時代中には幾度か落雷に合い、1665年の落雷時に天守を焼失しました。1931年に5層8階55mの復興天守が建造されました。1945年の大阪大空襲時に多くの建造物を焼失しましたが、天守は破壊を免れました。国重要文化財。特別名勝。

55.千早城 (大阪府千早赤阪村)

100万vs1000人 鎌倉幕府滅亡の要因となった城

千早城跡

鎌倉時代末期から南北朝時代の武将の楠木正成が築城したお城で、千早街道にある金剛山の標高673mのところに築かれた山城です。1333年に鎌倉幕府は100万とも言われる兵で千早城を攻めましたが、城兵が1000人足らずという中で楠木正成は深い谷に囲まれた城の地の利を活かして、大石を投石したりわら人形を用いての誘導戦を行ったり、油を入れた水鉄砲で火作を計じたりと奇策を用いて幕府軍を翻弄。その間に後醍醐天皇による討幕の綸旨が発せられ、全国の守護が蜂起。千早城を囲んでいた幕府軍からも離脱者が増え、関東で挙兵した新田義貞により手薄となっていた本拠地の鎌倉が攻められて、100日戦争とも言われています千早城の戦い後、12日後に鎌倉幕府は滅亡しました。そのまま同城には楠木氏が入るも、1392年に畠山氏に攻められ落城しました。国史跡。

■兵庫県

56.竹田城 (兵庫県朝来市)

天空の城

竹田城跡

標高353.7mの古城山に建てられた山城で、播磨と但馬の国境を守る拠点だったことから、室町時代には山名氏と赤松氏が、応仁の乱の際には細川氏と山名氏が、応仁の乱後には再び山名氏と赤松氏が同地を争いました。戦国時代に入り、1577年に織田信長家臣の羽柴秀吉の弟の羽柴秀長が竹田城を攻城し、落城させました。関ヶ原の戦いの後、山名豊国が入城するも、その後、廃城になりました。完存する石垣の遺構としましては全国屈指の規模を持つ城跡になります。朝霧が発生すると雲海に浮かんでいるように見えることから、天空の城とも呼ばれています。国史跡。

57.篠山城 (兵庫県丹波篠山市)

丹波最大の城郭

篠山城跡

1609年に徳川家康に命ぜられて、松平康重が西国大名の抑えとして笹山という丘陵に築城した丹波最大の平山城で、同城の特徴でもあります大型木造住宅建築物の大書院も二の丸に作られました。以後、松平氏、青山氏が城主を務めました。明治に入り各城の建造物が取り壊される中で、大書院は取り壊しを免れましたが、1944年に失火により焼失。石垣や外堀がよく残されている城跡です。2000年に大書院が再建されました。国史跡。

58.明石城 (兵庫県明石市)

宮本武蔵が町割りした城

明石城

1617年に明石藩主小笠原忠政が、西国諸藩の備えとして徳川秀忠に命じられて築城した平山城。また客分の宮本武蔵により城下町の町割りが行われました。以後、多くの城主が入れ替わりましたが、1682年に入城した松平直明以降は明治維新まで松平氏10代の居城となりました。明治になり廃城になった後は老朽化した建造物は解体され、明石公園となりました。本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は、日本に12基しか現存していない三重櫓のうちのふたつで、国の重要文化財に指定されています。国史跡。

59.姫路城 (兵庫県姫路市) [現存12天守・国宝]

国宝にして世界遺産。日本三名城

姫路城

1346年の南北朝時代に播磨国主の赤松貞範が姫山に築城。1349年より一族の小寺氏が城主に、1545年からは小寺氏の家臣の黒田氏が城主となりました。1576年に織田信長の命で羽柴秀吉が中国攻めが行われ、1577年に黒田孝高(黒田官兵衛)より同城の本丸が秀吉に譲られました。1580年に中国攻略の拠点として羽柴秀吉が入城、姫路城を近世城郭として大改築をし、城下町も整備しました。本能寺の変後、1583年に秀吉が大阪城に移ったため、秀吉の弟の秀長が入り、そして関ヶ原の戦いの後、池田輝正が入り大改修を行いました。明治の廃城令や昭和の太平洋戦争の戦災も回避し、その姿を現在に残すに至りました。国宝。世界遺産。

60.赤穂城 (兵庫県赤穂市)

赤穂浪士たちの居城

赤穂城

赤穂藩主の浅野長直が1648年から1661年の13年をかけて築城。近世城郭史上珍しい変形輪郭式の海岸平城で、城郭の規模は隅櫓が10、諸門が12、曲輪の総延長は2,847mにも及びますが、天守は作られませんでした。1701年に江戸城にて赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が吉良上野介を斬りつけ、翌年、家臣の大石内蔵介らが吉良邸に討ち入りしたことにより浅野氏は安房国に移封。以後、赤穂藩に入った森氏を藩主として明治を迎えました。明治に入り城内の建物は破却されるも、昭和に入り堀や櫓、門などが復元されました。国史跡。旧赤穂城庭園、本丸庭園・二之丸庭園は国名勝に指定されています。

■奈良県

61.高取城 (奈良県高取町)

郭内周囲約30kmの国内最大規模の山城

高取城跡

1332年に、南朝方の越智邦澄により標高584mの高取山頂に造られた城です。1580年に一度廃城となりましたが、本能寺の変後、1584年に城が城塞下、1589年に豊臣秀長の家臣の本多利久が入り増築。城内に三重櫓が17基も建ち並ぶ、周囲約3キロメートル、城郭内周囲は約30キロメートルにも及ぶ、日本国内では最大規模の山城で壮大な山城となりました。関ヶ原の戦い後、利久の子の俊政が高取藩の初代藩主になるも、1640年に植村氏が入り、14代に渡り明治まで城主を務めました。その後、自然倒壊や取り壊しなどにより建物は失われましたが、石垣や石塁などの遺構は当時のまま残されています。日本三大山城。国史跡。

■和歌山県

62.和歌山城 (和歌山県和歌山市)

徳川御三家の紀州藩の本城

和歌山城

標高49mの虎伏山の山頂に1585年に築かれた平山城で、1586年より桑山氏か城代として城に入りました。その後、浅野幸長が紀伊藩主として入城し、1619年に徳川家康の十男の頼宣が入城して徳川御三家の徳川紀州藩が成立し、明治になるまで続きました。明治になり城内の多くの建物が解体されました。天守は残っていたものの、1945年の空襲で焼失。1958年に天守が鉄筋コンクリートで再建されました。岡口門・続塀が国重要文化財に指定、また西の丸庭園が国の名勝として指定されました。国史跡。

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