■日本のポンペイを巡る

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泥流に飲み込まれながらも復興を遂げた村

黒井峯遺跡(群馬県)

イタリア南部にあった人口2万人の都市ポンペイ。西暦79年、町から約10㎞離れたヴェスヴィオ火山の噴火により火砕流が町に流れ、約2千人もの人が犠牲となりました。

ポンペイ

実は日本にも同じような状況となった場所があります。一つは群馬県渋川市にある黒井峯遺跡です。

3世紀~6世紀頃の古墳時代、同地にあった集落は約10㎞離れた榛名山の爆発による噴石によって瞬時に埋没しました。そのため住居跡などの痕跡が良好な形で確認され、日本のポンペイとも言われ、国の史跡にも指定されています。現在は、原っぱが広がるだけで、遺跡、というイメージとはかけ離れていますが、榛名山の遠望を望みながら、その雰囲気を感じ取れる場所です。

そして、もう一か所が群馬県嬬恋にあった鎌原村です。

江戸時代の1783年、村から12㎞離れた浅間山が噴火し大量の火砕流が流れ出し、瞬く間に麓の鎌原村を飲み込みました。その地鳴りは遠くは京都にまで届き、その火山灰は関東一円の空を覆い、その後の死者20万人とも言われる天明飢饉のきっかけともなったとも言われます大噴火でありました。

今もなお、噴煙を上げる活火山の浅間山

村民たちは急いで逃げまたが火砕流の速さは約100km/h。到底、人の足で逃げられる訳もなくあっという間に熱泥流に飲み込まれ、村民570人のうち477人が犠牲となりました。その熱泥が冷えて固まったのが今の鬼押出しです。

助かったのは高台の鎌原観音堂に逃げ上がった者と他出者のみ。観音堂までの50段の石段で、今残るのは15段のみです。残り35段は熱泥により埋まってしまいました。その埋もれた石段の下から年配の女性とその娘らしき遺骨が折り重なった形で見つかっています。娘が年老いた母親を背負って石段を上ろうとしたところで火砕流に飲み込まれてしまったのでしょうか。

噴火より三か月後、生き残った村民の中から七組による集団結婚式が行われました。夫を亡くした妻たちと、妻を失った夫たちとで、有力者たちによる任意の組み合わせで再婚式が行わされました。また、親を亡くした子供らは、子供を亡くした親などに引き取られました。各々個人の気持ちなど関係なく、全ては村の再生の為でありました。

鎌原観音堂

現在、復興を果たし千人以上が住んでいる鎌原地区。その足下には未だ火砕流に飲み込まれた鎌原村が眠っています。

黒井峯遺跡

総走行距離~約120km

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