西の秀吉、東の一益
両軍合わせて約7万4千人もの兵が戦った「神流川の戦い」。関東最大の野戦ながら、北条軍と戦った猛将 滝川一益のことを知る人は意外と少ないのです。

1582年6月2日、本能寺にて織田信長死す。享年49才。
毛利軍を攻略中の羽柴秀吉の支援に向かう予定だった明智光秀が謀反を起こして、京都の本能寺に逗留していた織田信長を討った(自害させた)のでした。その後、岡山県の備中松山城で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉が京都まで約230kmの距離を僅か約10日で移動し、6月13日に光秀を討ったことは日本史の授業で習ったことでしょう。では、信長が討たれた時、秀吉以外の織田軍の軍団長はどうしていたのでしょうか。

織田軍筆頭の柴田勝家は富山県の魚津城で上杉軍と戦った後、すぐに自城に戻るも、滋賀県に入ったのが6月18日でした。京・堺を遊覧中だった徳川家康は伊賀の山中を抜けて自領に戻り自城の岡崎城で出陣したのは6月の14日でした。そして、信長の長男の信忠は信長と共に本能寺にて自害しましたが、次男の信雄は三重の自城に居るも兵が僅かしかいなかったため動けず、本能寺に一番近くにいた三男の信孝は織田家重鎮の丹羽長秀と共に四国平定のために大阪から渡海する最中でしたが、本能寺の変を知った兵たちが逃亡したため、こちらも戦える状態ではありませんでした。そして、もう一軍ありました。それが滝川一益軍です。

羽柴(豊臣)秀吉や徳川家康に比べてあまり馴染みのない滝川一益ですが、織田軍内で頭角を表したのは伊勢(三重県)の攻略時に先鋒として活躍し、その後、一条谷城の戦いや長島一向一揆の鎮圧で功をあげて、武田軍との長篠の戦いにおいては鉄砲隊の総指揮を行いました。また、九鬼水軍と共に石山本願寺を攻略し、武田討伐軍として当主の勝頼を討ち取るという功績をあげました。その流れもあってか、信州、そして上野国(群馬県)に進軍し、関東の北条家に睨みをきかすようになっていました。

その滝川一益ですが、京都からかなり離れた群馬にいたため、本能寺の変のことを知ったのは6月7日(または9日)の頃。但し、その後,11日に能を興行するなど、悲報を聞いて即大返しをした秀吉に比べるとのんびり感は否めません。もちろん、京都へ戻る道中の甲斐国(山梨県)や信州には自身が滅した武田の残党がいて、すぐには身動きが取りづらいかったとは思いますが、6月11日に信長の死を知った北条氏政が翌12日には領国に動員令を発動し、16日には小田原城の北条氏直率いる5万6千人の北条軍が既に上州の倉賀野(高崎)に侵攻をしています。この北条の動きも早いです。

迎え討つ滝川軍は総勢1万8千人。滝川軍は北条軍の金窪城などを落城させ、その勢いでまだ足並み揃わぬ北条軍に初戦の金窪原の戦いで勝利を納めたものの、翌6月19日に開戦した神流川での戦いでは自軍にいる関東諸将たちが戦いに消極的で滝川軍は大敗を喫しました。


敗走した一益は倉賀野城を経て厩橋城に入り、戦死者の供養を行った後、小諸城、木曽福島城に立ち寄り、7月1日に自領の伊勢に戻りましたが、すでに織田家の重鎮たちが集まり逆臣明智光秀を討った秀吉主導による織田家の後継者を選ぶ清洲会議(6月27日)が行われた後で、会議に間に合わなかったことで一益の地位は凋落しました。

その後、秀吉が柴田勝家と戦った際には柴田側に付き敵軍を自城に釘付けにするも勝家が自害し降伏しました。秀吉と家康が戦った小牧・長久手の戦いでは秀吉側に付き、戦後五千石が与えられた後、一益は1586年に死去しました。享年62才。子孫は旗本として幕末まで続き、その家系は現在まで残っています。

鉄砲や調略を得手とし、水軍も率いた滝川一益。仁義も通し、秀吉に勝るとも劣らない武将ではありましたが、運を味方にできませんでした。関東最大の野戦の神流川の古戦場も石碑が点在するのみで、往時を語るものがほとんど残っていないのも、そんな一益を象徴しているように感じました。













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