■湖北古戦場巡り(ツーリングルート)

目次

歴史の分かれ目の地を訪ねる

歴史に「もし」はありませんが、それでも歴史の大きな分岐点となる場所は幾つもあります。特に戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三英傑により江戸時代という太平の世を迎えましたが、もし、織田信長が浅井、朝倉の挟撃にあって命を落としていたら…、もし羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家に負けていたら…、そして、関ヶ原の戦いで徳川家康が負けていたら…など、そんな、歴史の分岐点となる古戦場跡が多く在ります琵琶湖の湖北エリア。実際に戦が行われたそれらの地を訪ね、戦国の浪漫に浸るツーリングもまた、乙なものかもしれません。

賤ケ岳から余呉湖を望む

総走行距離~約140km

戦国時代、織田信長が天下布武を掲げるも、天下統一直前で臣下の明智光秀の謀反によって討たれ、その光秀は羽柴(豊臣秀吉)に合戦で負けて亡くなり、そして、豊臣秀吉によって天下統一がされますが、秀吉死後に東西を分けた天下分け目の関ケ原の合戦が行われ、徳川軍が勝利し、以後、豊臣家が滅んだ後に、徳川幕府が開かれ265年もの間、太平の江戸時代が続きました。さて、そんな激動の戦国時代の跡を巡って、織田信長が天下布武を掲げました岐阜城から、湖北の古戦場を巡るツーリングルートです。

岐阜城 天守閣からの長良川方面を望む

まず、岐阜城に一番近い高速のICは、出発地にも寄りますが。例えば名古屋市街からでしたら東海北陸自動車道の岐阜各務原ICになります。ここから県道181号線、女子大通りと走り繋いで金華山に。長良川沿いにある金華山中にそびえたちます岐阜城。元々は稲葉山城といって斎藤氏の居城でしたが、羽柴秀吉の墨俣の一夜城などの活躍もあり、織田信長が攻略し1567年に落城。清州城から小牧山城に居城を移していました信長は、そのまま稲葉山城へと移り、同地と城の名前を岐阜として「天下布武」の朱印を用いるようになりました。

岐阜城~1201年に金華山に作られた砦だった稲葉山城を、16世紀になり城主となった斎藤道三が山頂に城を作り、その後、子の義龍、そして、孫の龍興と城主が変わり、1567年に織田信長が同城を攻め落城。名を岐阜城と変え、以降、1576年に嫡男の信忠が城主になるまで織田信長は同城を居城として天下統一を目指しました。

岐阜城からそのまま長良川沿いを走ります。右岸、左岸共に川沿いの道がありますが、途中に羽柴秀吉(木下藤吉郎)が築城したと伝わります墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)があり、潮の周辺には、墨俣宿脇本陣跡や夜城園遊郭跡などの風情ある建物も残っていますので、ぷらっと立ち寄って見られてはいかがでしょうか。

そして、再び長良川沿いを走り、やがて、安八スマートICか、大垣ICから東名高速に入ります。しばらく走りますと関ヶ原ICがありますので、そこで高速を下ります。

1600年に徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍が激突しました、まさに天下分け目の大合戦が行われました地で、東軍の松平・井伊軍が西軍の宇喜多軍に発砲をして開戦したと伝わります関ヶ原古戦場 開戦地や激戦が繰り広げられたと言われています場所に立つ関ケ原古戦場の石碑ほか、二十万人近くが戦っとと言われるほどのあまりに広い場所に史跡が点在しています。特に多いのが各名将の本陣跡で、馬防柵がある島左近陣跡、島津義弘陣跡や大谷吉継の墓が近くにある大谷吉継陣跡など、さすがは天下分け目の合戦だけありかなりの数があります。東軍の陣地は東方の関ヶ原宿の方にあり、徳川家康の陣地が最初の陣地から西に向かって最後の陣地跡があるのも面白いところです。

関ヶ原の戦い~1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康と前田利家、石田三成と加藤清正らなどと豊臣政権下の各武将の対立が表面化し、そして、16oo年、家康が上杉景勝征伐のために会津に向かう途中に、西側で石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵。家康家臣の鳥居元忠がいる伏見城を攻めました。家康軍は反転して西に向かい、9月15日に関ヶ原にて両軍が衝突。家康軍の勝利に終わりました。

また、東西首塚や麓から山道を40分かけて上ったところにあります西軍を裏切って東軍の勝利を導いとも言われます小早川秀秋の本陣があった松尾山城跡などもあります。可能なら、岐阜関ヶ原古戦場記念館や石田三成陣跡近くにあります関ケ原観光協会に寄って関ヶ原の戦いについて知ってから古戦場を周ると、より造詣が高まること間違いなしです。

石田三成陣跡

ちなみに同関ヶ原の地には、関ヶ原の戦い関連以外の史跡もあり、壬申の乱後、自害した大友皇子の首を埋葬したと言われています自害峰の三本杉や、源義経の母である常磐御前の墓と言われています供養塔があったりと、歴史ファンにはたまらない場所で、細かに各々の場所を見ていましたら1日あっても足りませんので、ある程度、事前にどこに立ち寄るか、どのようなルートが回りやすいのかを確認しておくことをお勧め致します。

さて、見どころの多い関ヶ原を後にして国道365線で米原市へと向かいますが、途中に伊吹山を上ります約17kmの伊吹山ドライブウェイがあります。坂道が続きますが、尾根伝いに山をどんどん上っていいますので、終始、眺望がいいです。伊吹山はヤマトタケルノミコトの伝説も残り、山頂にはヤマトタケルノミコトの像も建っています。但し、山頂駐車場までのピストン道路で、125cc超のバイクは通行料が2,200円(125cc以下は無料)かかりますので、走られるかどうかはお好み次第で。

伊吹山 山頂からの眺望

さて、国道365号線で西に向かいますと、伊吹山山麓を通り滋賀県の米原市に入りますと、やがて、1570年に織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の戦いが行われた姉川の古戦場に到着します。ちなみに、姉川を渡る前の場所に、織田信長や徳川家康が布陣したと伝わる龍ヶ鼻砦があり、その先に織田信長の本陣跡といわれてます陣杭の柳や大きな杉の木があります姉川古戦場 徳川家康陣跡などがあります。そして、姉川を渡りますと姉川古戦場に着きます。川のたもとに姉川古戦場と書かれた看板があり、この辺りで開戦したようです。そして、姉川古戦場跡という案内版のあります激戦地だったらしい場所に血原公園があります。史跡というとこのくらいで、意外と観光地化はされていない古戦場です。

姉川の野村橋脇にあります姉川古戦場の看板

姉川の戦い~1570年4月、織田信長が朝倉氏を討伐するために越前に侵攻するも義弟の浅井長政が裏切られ、挟撃されそうになるも窮地から脱しました(金が崎の退き口)。5月に京都から本城の岐阜に戻った信長は、翌6月に出陣。6月28日に姉川の地で、織田・徳川軍と浅井・朝倉郡が激突。織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。

そのまま国道365号線を走り、草野川を渡りますと、浅井という看板や名前をよく目にするようになります。そして、小谷城址に到着します。495.1mの小谷山全体に作られた要塞のようなお城で、有事の際にこの地を治めていた小谷氏が立てこもった城址になります。

1570年に姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた浅井氏はこの小谷城に立てこもります。そして1573年、小谷城を包囲していた織田軍が浅井氏の援軍に来ていた朝倉軍を刀根坂の戦いで破り、そのまま本城の一乗谷まで攻め込み朝倉氏を滅亡させると、その2週間後に小谷城を攻めて落城させました。

小谷城から琵琶湖方面を望む
小谷城本丸下の石垣

小谷城の戦い~1570年に姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍の勝利した織田信長は、浅井氏の本拠地である小谷城を包囲。1573年に小谷城の対面にあります虎御前山に布陣し、援軍に来た朝倉軍を攻め、本拠地の一乗谷まで追い詰め、朝倉氏を滅ぼした後に小谷城を総攻撃。小谷城は落城し浅井氏は滅亡しました。その際に、浅井長政に嫁いでいた信長の妹のお市の方と三人の娘は助け出されました。小谷城は日本五大山城に数えられ、日本百名城にも選ばれていて、国の史跡でもあります。

番所跡に駐車場がありますので、そこにバイクを置いて、本丸跡まで往復で1時間ほどの散策になりますが、山城のため急坂を上りますので、かなり体力を消耗しますし、バイクの装備で大丈夫ですが、夏ですとかなり汗をかきますので、替えのシャツの用意などがあった方がいいかもしれません。小谷城は、織田信長の妹のお市の方が嫁いだ城ということで、羽柴秀吉によるお市の方の救出や、その後の歴史を作る、お市の方と城主の浅井長政との間に生まれた三姉妹など、いろいろ物語があるお城で、織田軍の攻城戦を想いながら歩くと感慨深いものがあります。

なお、北陸自動車道を挟んで、小谷城の対面の虎御前山に、小谷城攻略のための織田信長が本陣跡がありますが、1時間近く歩く必要がありますため、車道がありバイクで行ける、麓の虎御前山展望台で周囲の田園風景の好景観を望むのにとどめるのをお勧め致します。また、北陸自動車道の小谷城スマートICの少し先に、JR河毛駅前に浅井長政 お市像があり、バイクと一緒に撮影することも出来ます。

浅井長政 お市像

さて、小谷城址から再び国道365号線を北上し、長浜市で国道303号線に入ります。そして、余呉川を渡る前に国道514号線に入り、賤ケ岳リフト駐車場へと向かいます。ここにバイクを置いて、賤ヶ岳リフト(往復900円)に乗って、賤ヶ岳を登ります。約10分ほどで賤ヶ岳リフト山頂駅に到着。そこから15分ほど歩きますと、山頂展望台に到着します。展望台からは、琵琶湖はもちろんのこと、眼下に余呉湖、竹生島、遠望に伊吹山が一望できる絶景を望めます。

賤ケ岳 山頂展望台からの景観

賤ケ岳の戦い~1582年、織田信長が明智光秀の謀反によって討たれ、その後、山崎の戦いで、羽柴秀吉が明智光秀を討取りました。その後、信長の後継者を決める清須会議で、織田家の重鎮の柴田勝家は、信長の嫡男で明智の軍勢に囲まれて二条新御所で自刃した信忠の子である三法師を推した秀吉と対立することになります。やがて、ここ賤ケ岳で両者が戦うことになり、秀吉側が勝利します。ここで功名をあげました秀吉臣下の武将は賤ヶ岳の七本槍として有名です。

そして、その展望台の近くに、賤ヶ岳古戦場や柴田勝家像があります。

賤ケ岳にあります柴田勝家像

賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、本城の北の庄城(福井城)に逃れるも、秀吉軍に包囲され、かつて秀吉が小谷城から救出し、その後、柴田勝家の妻となっていたお市の方とともに自害しました。ここで、(浅井長政との間に産まれ、柴田勝家のもとにいました)お市の方の三人の娘は助け出され、後に長女の茶々は秀吉の側室(淀君)となり、豊臣秀頼を産みました。次女の初は京極高次の正室となり、三女の江は徳川2代将軍の徳川秀忠の妻となり、3代将軍家光を産みました。江は後に皇室に嫁いだ徳川和子も産み、その血筋は現在の天皇家にまで続いています。

お市の方と浅井三姉妹像(福井県福井駅近く)

なお、賤ケ岳の最寄りの高速のICは北陸自動車道の木之本ICで、そこから帰路に着くことが出来ますが、その他、賤ケ岳の北側には天女の羽衣伝説や賤ヶ岳の合戦の舞台にもなりました槍洗いの池などがあります、一周約6.4kmの風光明媚な余呉湖があります。また、賤ケ岳の西側には奥琵琶湖パークウェイもありますので、時間に余裕があれば、古戦場を周った後に帰路に着かずに、周囲を回ってみるルーティングもいいかもしれません。

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