13城の選定があります九州地方の100名城。残念ながら現存天守は無いですが、戦国時代には島津、竜造寺、大友らが争った地ながら、福岡城や佐賀城、人吉城や飫肥城、鹿児島城のように、江戸時代を通して藩主の家系が変わらなかった居城が多いのが特徴です。また、九州といった大陸と近い場所がら、大和朝廷が大陸からの侵攻に備えて作った大野城や、逆に豊臣秀吉が朝鮮との戦いのために作った名護屋城などがあるのも特徴的なエリアです。
1.福岡城 2.大野城 3.名護屋城 4.吉野ヶ里遺跡 5.佐賀城 6.平戸城 7.島原城 8.熊本城 9.人吉城 10.府内城 11.岡城 12.飫肥城 13.鹿児島城
■福岡県
85.福岡城 (福岡県福岡市)
関ヶ原後から明治まで黒田氏12代の居城
1600年、黒田長政は関ヶ原の戦いの戦功により筑前国52万3千石に加増入封し福岡藩初代藩主となり、1601年より7年をかけて福崎丘陵に、東西1km南北700mの敷地に47の櫓と10を越える城門を持つ大規模な平山城となる福岡城を築きました。黒田氏が藩主のまま明治を迎え、1873年には城内の多くの建造物が解体されました。現在は城跡は舞鶴公園、大濠公園として市民の憩いの場となっています。多聞櫓、二の丸南隅櫓が国重要文化財に指定。国史跡。
86.大野城 (福岡県太宰府市・大野城市・宇美町)
日本最古の古代の山城
福岡県の宇美町、太宰府市、そして大野城市に跨がる四王寺山にある城壁の全長が約8.4kmにも及ぶ広大な古代山城で、東西約1.5km×南北約3kmの日本一大規模な古代山城です。朝鮮半島での白村江の戦いで唐・新羅に負けたことからの唐の侵略からの防衛のために大和王朝が665年に築きました。国の特別史跡に指定されています。
■佐賀県
87.名護屋城 (佐賀県唐津市)
豊臣秀吉の大陸侵攻の前線基地
1591年、日本を統一した豊臣秀吉が、明・朝鮮との戦いである文禄の役の前に築き始め、約8ヵ月で築城した、当時では大阪城に次ぐ大きさの城でした。本丸、二の丸、三の丸、曲輪などを配し、本丸には5重7階で瓦に金箔を施した天守が築かれました。周囲には全国から集められた大名の陣屋118ヵ所が置かれ、城下町には最盛期の人口は10万人を超えたと伝わっています。大陸侵攻の前線基地として使用されましたが、豊臣秀吉死後に大陸に渡っていた兵士たちは撤収し、同城も役目を終えました。以後、城内の建築物は移築されたり、資材として転用されつつ破却されました。現在は、名護屋城周辺に残る陣跡が国特別史跡に指定されています。
88.吉野ヶ里遺跡 (佐賀県吉野ヶ里町)
国内最大級の弥生時代の環壕集落跡
高地の吉野ヶ里丘陵にあります紀元前10世紀から紀元前3世紀中頃までの弥生時代にあった国内最大級の環壕集落跡です。周囲には二重の濠が掘られ、柵や土塁などで敵の侵入を防ぎ、櫓なども建てられ、住居兼城砦になっていのが分かります。やがて、戦乱が収まると人々は水田などを耕せる低地へと移動したことで、高地での集落生活はその役目を終えたと言われています。国営吉野ヶ里歴史公園として住居や櫓、倉庫なでが復元され、当時の様相を知ることができます。国特別史跡。
89.佐賀城 (佐賀県佐賀市)
鍋島氏11代の居城
関ヶ原の戦い以後の1602年に、佐賀藩主となった鍋島直茂によって築城。幅80mもの内堀や幾重もの外堀、4重5階の天守を備え、1611年に完成しました。攻撃された際には主要部以外はわざと水没させ防げる仕組みもあったことから、沈み城とも呼ばれてました。1726年に火災により天守ほか建造物を焼失。本丸などが再建された後、明治に入り、佐賀の乱(佐賀戦争)にて大半の建造物を焼失。尚、焼失を免れた鯱の門と続櫓は国の重要文化財に指定されています。
■長崎県
90.平戸城 (長崎県平戸市)
山鹿流築城法唯一の平山城
同地の大名となった松浦鎮信により1599年に築城された平山城。しかし、1613年に自ら城に火を放ち破却しました。その後、5代藩主松浦棟により1704年に再建。1707年に軍学者の山鹿義昌の指導のもと、天守の代わりに3重3階の櫓を用いた城が完成しました。しかし、1871年の廃城令により、現存する狸櫓と北虎口門を除いた建物が解体されました。1962年に模擬天守が建てられました。
91.島原城 (長崎県島原市)
島原の乱勃発の発端
1616年に島原藩主として松倉重政が入り、1618年に島原城の築城を行い、1624年に完成しました。島原藩は4万石ながら城は総石垣で5層の天主や49もの櫓を建てる豪華さで、その他の出費により領民から年貢を重く取り立てる他、前藩主の有馬氏がキリシタン大名であり領内でキリスト教の布教も広がる中、重政や嫡男の勝家はキリシタンの弾圧を行った結果、領民の一揆による島原の乱が勃発。その責任で松倉氏は改易となりました。明治になり廃城令により1876年に城内の建造物は破却。1964年に天守が復元されました。
■熊本県
92.熊本城 (熊本県熊本市)
加藤清正が築いた中世城郭を代表する城
1588年に肥後の北半国の領主となった加藤清正が、1591年より茶臼山丘陵一帯に新たな城を築城し、1600年に完成。関ヶ原の戦いで清正は肥後国52万石に加増され、1606年に中世城郭を取り込んだ熊本城が完成しました。1632年に細川忠利が肥後国に入り、熊本城に入城しました。以後、細川氏が藩主を務め、明治を迎えました。1877(明治10年)に西南戦争直前に天守など多くの建造物を焼失。太平洋戦争による空襲の被害は受けることなく、1960年に鉄筋コンクリート製の天守を再建。櫓や城門、塀など13棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。国特別史跡。
93.人吉城 (熊本県人吉市)
相楽氏35代670年の居城
鎌倉時代の1205年に肥後国人吉の地頭に任じられた相良長頼が築城した平山城で、戦国時代に入り、秀吉による九州征伐の後も、関ヶ原の戦いの際も、相楽氏は敵方についたにも関わらず人吉の領地を安堵され、江戸時代には人吉藩の藩庁が置かれ、明治に至るまで、35代に渡り670年も相良氏が在城しました。1802年と1862年の火事で城は全焼したものの一部建物が再建されましたが、1871年に廃城となり、1877年の西南戦争において、それらの建造物も全焼しました。1989年と1993年に櫓や塀が復元されました。石垣の一部に武者返しという独特な形状のものがあるのが特徴です。国史跡。
■大分県
94.府内城 (大分県大分市)
水上に浮かんでいるように見える城
1597年に府内に入国した福原直高により荷揚城という海城が築かれ、1601年、関ヶ原の戦い後に3万5千石で竹中重利が入城し、同荷揚城を改修して、1602年に天守が完成し、1607年に改修が終了しました。1658年に松平忠昭が入城し、以後、明治まで松平氏の居城となりました。1743年に大火により天守を焼失。明治になり大分県庁が置かれ、1945年の空襲の際には櫓などが焼失しました。1965年に櫓や大手門が復元されました。白土の塀と水上に浮かんでいるように見えることから、白雉(はくち)城とも呼ばれています。
95.岡城 (大分県竹田市)
圧巻の石垣群
標高325mの天神山という岩山に築かれた城で、1185年に豊後国大野郡を領していた緒方惟栄により築かれた山城です。1586年に耳川の戦いで敗れた大友氏を追ってきた島津の大軍を城主の志賀親次が再三にわたり撃退したことから、難攻不落の城とも言われています。1594年に城主となった中川秀成の時に総石垣造りの石の城へと大改修されました。明治維新後に廃城となり、城内の建造物は全て破却されましたが、1987年に模擬天守と大手門が復元されました。断崖絶壁の上を石垣で取り囲む、圧巻の高石垣は必見です。国史跡。
■宮崎県
96.飫肥城(おびじょう) (宮崎県日南市)
島津氏と伊藤氏の長い争奪戦か行われた城
島津氏が日向の伊東氏に備えて築城した城で、当初は島津氏の属城でしたが、1567年に伊東氏の城となります。しかし、再び島津氏の支配下になった後、1587年に伊東祐兵が九州平定の功績により飫肥城主に復帰。その後、関ヶ原の戦いでは東軍につき、そのまま伊東氏は飫肥藩藩主として明治になるまで、280年にわたり飫肥の地を治めました。1978年には大手門が復元されました。壮大な石垣が往時を偲ばせてくれます。
■鹿児島県
97.鹿児島城 (鹿児島県鹿児島市)
薩摩藩島津氏の居城
1601年頃に島津家第18代当主・薩摩藩初代藩主の島津家久により築かれた城で、以降、明治になるまで島津氏の居城となりました。江戸時代には建造物が幾度も倒壊、焼失し、その度に再建されましたが、明治に入り1873年の火災で御楼門ほか多くの建造物を焼失しました。御楼門は、高さ、幅ともに約20mと、国内最大の城門で2020年に再建されました。