甲信越・北陸(日本100名城)

松本城(長野県)

甲信越地方と言えば、やはり戦国時代的には、越後国(新潟県)の上杉謙信と甲斐国(山梨県)の武田信玄との戦いが有名です。両者の居城の春日山城や躑躅ヶ崎館が100名城に選ばれている他、両者が戦った川中島にあります松代城も選ばれています。また、武田氏の家臣だった真田氏も同地に多くの城を築いており、特に徳川家康と戦った上田合戦の舞台ともなりました上田城も選ばれています。甲信越エリアでの現存天守は国宝の松本城。そして、北陸には丸岡城があります。北陸地方では、加賀百万石の前田氏居城の金沢城と織田信長によって滅ぼされた朝倉氏の居城の一乗谷城に栄枯盛衰を感じられます。

1.武田氏館(武田神社躑躅ヶ崎館) 2.甲府城 3.松代城 4.上田城 5.小諸城 6.松本城 7.高遠城 8.七尾城 9.金沢城 10.丸岡城 11.一乗谷城

■山梨県

24.武田氏館(武田神社躑躅ヶ崎館) (山梨県甲府市)

武田氏三代の居館

武田氏館(武田神社・躑躅ヶ崎館)

1519年に甲斐国の武田信虎の居城が移転され、以降、信玄、勝頼と、武田氏の居城となりました。躑躅ヶ崎の地にありましたため、躑躅ヶ崎の館とも呼ばれました。その後、館の北東部に要害城が築かれました。山本勘助の築城術による攻められにくい三日月堀を備え、館ということながら三方を攻防に優れた居館でした。しかし、勝頼の代に居城を韮山市の新府城に移転。武田氏滅亡後は、織田家臣の河尻秀隆が入り、本能寺の変後は徳川家康の支配下になりましたが、1590年に甲府城が築城されその機能が移されました。1919年に躑躅ヶ崎館(武田信玄公墓前)に武田神社が建てられ、今に至っています。国史跡。

25.甲府城 (山梨県甲府市)

徳川将軍家一門が城主になった城

甲府城

武田氏が滅亡した後、武田氏の居城の躑躅ヶ崎館に変わって甲斐国を統治する国守の居城として1583年ごろに建てられました。関ヶ原の戦い以降は徳川氏の城となり、江戸時代には将軍家一門が城主になる徳川家に近しいお城で、城下町の甲府も繁栄いたしました。明治に入り、城は廃城になり建造物も取り壊さられました。2013年に鉄門(櫓門)が復元されました。ちなみに、同じ市に百名城が複数あるのは、滋賀県の近江八幡市、愛媛県の松山市と、この甲府市の3箇所になります。国史跡。

■長野県

26.松代城 (長野県長野市)

川中島の戦いの舞台にもなった城

松代城

海津城と呼ばれていた城で武田信玄が北信制覇の拠点として山本勘助に命じて川中島に築城した城です。武田氏が築城した代表的な城のひとつで、特徴の丸馬出や三日月堀を配置しています。1561年に上杉謙信が侵攻し、第四次川中島の戦いが同地で行われました。武田氏が滅亡した後、織田家臣の森長可が入城。江戸時代は松代藩の藩庁として、真田氏の居城となりました。以後、松代城と城名を改めましたが、明治になり1872年に廃城。2004年に太鼓門や堀、石垣、土塁などが復元されました。国史跡。

27.上田城 (長野県上田市)

真田vs徳川〜上田合戦の舞台

上田城

1583年に真田昌幸が築城した平城です。1585年に徳川家との戦いによる第一次上田合戦が行われるも徳川軍を撃退。1600年には関ヶ原の戦いの東軍の徳川秀忠軍と戦い、徳川家を苦しめ足止めさせました。翌1601年に徳川氏により城は破却され、1622年に入城した仙石氏により再建されました。明治に入り建物が撤去や移築されましたが、昭和に入り移築されていました本丸や櫓が復元されて、現在は櫓門や塀なども復元されています。また、旧二の丸は上田城跡公園として憩いの場として桜の名所にもなっています。本丸跡にある真田神社は落城しなかった城として受験生が多く参拝しに来ます。国史跡。

28.小諸城 (長野県小諸市)

信濃小諸藩初代藩主の仙石秀久入城の城

小諸城

1554年に武田氏により竣工。武田氏が滅亡した後、織田家臣の滝川一益が入城するも、本能寺の変後に依田信蕃が、そして小田原征伐後は仙石秀久が城主となりました。江戸時代には小諸藩の藩庁になり、城主も幾人か変わりましたが、1702年に牧野氏が入り、そのまま明治を迎えました。現在は小諸城址懐古園として公開されていて、当時のものとして、大手門、三之門、石垣などが現存しています。同園は日本さくら名所100選にも選定されています。大手門、三之門が国重要文化財。

29.松本城 (長野県松本市) [現存12天守・国宝]

地元の尽力で現存された城

松本城

1504年に小笠原氏が深志城として築城。その後、武田氏が支配し、武田四天王の一人、馬場信春が城主となりました。そして、武田氏の滅亡、本能寺の変を経て、再び小笠原氏が城主となり松本城と改名致しました。1590年の小田原征伐後は豊臣秀吉家臣の石川数正が入り城下町を整備するも、大阪の陣以降は松本藩の藩庁として城主が幾度か変わりましたが、戸田氏の居城となりました。明治以降は、解体の危機や不審火、倒壊の危険などがあったものの、地元の名手や教育者のバックアップなどがあり現存し続けました。国史跡。

30.高遠城 (長野県伊那市)

武田氏の信濃進出の拠点

高遠城跡

諏訪氏一門の高遠頼継の居城でした高遠城は、武田氏が制した後、武田氏の信濃進出の拠点として改修されました。1582年に織田軍5万に対して、武田信玄の五男で高遠城主の仁科盛信は3000人の兵を用いて籠城するも落城しました。その後、徳川家臣の保科正直が入城しました。江戸時代には高遠藩の藩庁となり、城主が交代しましたが、1691年に内藤氏が藩主となり、そのまま明治を迎えました。1871年の廃藩置県で城の建造物は取り壊されて公園になりました。公園内には国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣などがあり、桜の名所としても知られています。国史跡。

■新潟県

31.新発田城 (新潟県新発田市)

12代270年に渡り治めた溝口氏の居城

新発田城

新発田氏による築城と伝わり同氏の居城となっていました。1587年に主の上杉景家に反乱を起こすも攻勢され落城。その後、1597年に溝口秀勝が入城し、江戸時代には越後国新発田藩として幕末まで溝口氏が藩主を務めました。1668年築で移築現存している旧二の丸隅櫓、及び1732年に再建されました本丸表門は国重要文化財に指定されています。また、三階櫓と辰巳櫓が復元されました。

32.春日山城 (新潟県上越市)

上杉謙信の居城

春日山城跡

南北朝時代に上杉氏が築城。1548年に後の上杉謙信である長尾景虎が入城。その後、上杉景勝も入城し、上杉四代の居城となりました。しかし、上杉景勝が会津に転封になったことから、堀氏が入るも1607年に福島城に移り、春日山城は廃城となりました。1901年に春日神社が創建され、1931年に毘沙門堂が復元されました。日本五大山城の一つ。国史跡です。

■富山県

33.高岡城 (富山県高岡市)

保存性が非常に良いお城

高岡城

初代加賀藩主の前田利長により築城されるも、1615年に出された一国一城令により廃城に。しかし、その後も長く保存され、1821年に火災で消失するも再建され、明治8年の1875年に公園として一般に解放されました。築城以来の二の丸や三の丸にあります馬出郭は当時のままで、また水堀はほぼ完全な状態で残されて、保存性が非常に高いお城です。城跡内には高岡市立博物館があります。国史跡。

■石川県

34.七尾城 (石川県七尾市)

保存性の高い全国屈指の山城

七尾城跡

1428年〜29年頃に能登国守護の畠山満慶によって標高300mの城山に築かれましたが、当初は砦のような城で、以後拡張され、畠山氏の居城として全国屈指の大規模な山城になりました。1576年に上杉謙信により攻められるも一年に渡り籠城を行い開城しました。1581年に織田家臣の前田利家が入城しましたが、1589年に拠点が小丸山城に移り廃城となりました。建築物は残っていないものの、曲輪の石垣の多くが現存していて、遺構が多く残っています。日本五大山城の一つ。国史跡。

35.金沢城 (石川県金沢市)

加賀百万石の前田氏の居城

金沢城

1580年に織田家臣の佐久間盛政が本願寺の拠点の尾山御坊を奪取し、金沢城としました。1583年に前田利家が入城し、本格的に城造りが行われました。1602年に落雷で天守が焼失、また1759年の宝暦の大火で建物の多くを失いました。その後、再建されましたが、明治14年の1881年に火災で焼失。1996年に金沢城址公園として整備が行われ、2001年には金沢公園と改称されました。石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫が国の重要文化財に指定。国史跡。

■福井県

36.丸岡城 (福井県坂井市) [現存12天守]

北陸唯一の現存天守

丸岡城

1576年に一向一揆への備えとして織田家臣の柴田勝家の甥の勝豊により築城された平山城。その後、本能寺の変、賤ヶ岳の戦い、関ヶ原の戦いを経て1612年に本多成重が入り、越前丸岡藩の初代藩主となりました。1628年に天守が建築され、1695年に有馬清純が城主となりました。以後、明治になるまで有馬氏8代の居城となりました。1871年に廃城となり天守以外は破却されました。天守は1948年の福井地震により倒壊しましたが、1955年にその部材を使って再建しました。国重要文化財。

37.一乗谷城 (福井県福井市)

栄枯盛衰、朝倉氏の本城

一乗谷城跡

南北朝時代から一乗谷を本拠地としていました朝倉氏の館があり、一乗谷城は標高473mの一乗城山に築かれた山城です。城下町は最盛期には住民が1万人以上暮らし一乗谷文化が花開いていたと伝わっています。1567年には朝倉義景が将軍足利義昭を保護。しかし、1573年に織田信長との戦いに敗れ、一乗谷は信長の軍によって火を放たれました。また、義景も自害し、朝倉家は滅亡しました。1575年に織田家臣の柴田勝家が入るも、拠点を北ノ庄(福井市)に移したため、一乗谷は土の下に埋もれていきました。1967年に同地の発掘が始まり、現在は戦国時代の町並みを復元した「復原町並」などもあり、タイムスリップ感を味わえます。国特別史跡。

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