中国(日本の100名城)

備中松山城(岡山県)

松江城と備中松山城の2城が現存する中国地方ですが、やはり中国地方と言いますと中国の覇者の毛利氏が携わった城が多く、吉田郡山城や広島城、萩城などが100名城に選ばれています。また、昨今、天空の城として人気の備中松山城や、尼子氏の再興を願った舞台となりました月山富田城なども100名城に選ばれています。

1.鳥取城 2.松江城 3.月山富田城 4.津和野城 5.津山城 6.備中松山城 7.鬼ノ城 8.岡山城 9.福山城 10.吉田郡山城 11.広島城 12.岩国城 13.萩城

■鳥取県

63.鳥取城 (鳥取県鳥取市)

戦国時代史上、凄惨を極めた籠城戦

鳥取城跡

16世紀中頃に標高263mの久松山山頂に山築かれた山城で、織田家臣の羽柴秀吉により1580年、及び1581年に攻城戦が行われました。特に1581年の戦いは2万人もの兵で城を囲む兵糧攻めが行われ、1400名の城居て約20日間の食糧しか用意されていない中で、2000人の農民たちも城内に追いやられ、4ヶ月が経ち城内の草木も食べ尽くされ、あまりに凄惨たる景観に耐えかねて城主の吉川経家は開城しました。その後、秀吉の家臣の宮部継潤が城に入り、関ヶ原の戦い後は池田氏が城主として因幡鳥取藩を治め、12代続き明治時代を迎えました。城内な建物は解体されたり取り壊されたりされ、現在では天守台と石垣のみが残っています。複数の時代の遺構が残り、見どころが多いのも特徴です。国史跡。

■島根県

64.松江城 (島根県松江市) [現存12天守・国宝]

地元の有志たちによって守られた天守

松江城

1611年、眼下に宍道湖を望む標高29mの亀田山に松江藩主の堀尾氏によって建てられた平山城で、1634年に入城した京極氏により完成。その後、松平氏が入り明治まで続きました。明治の廃城令により天守以外の建物は撤去されましたが、地元の有志たちが天守を購入し保存されました。1927年に公園として一般に解放され、2000年には二の丸の南櫓と塀、翌年には、中櫓や太鼓櫓が復元されています。日本さくら名所100選にも選ばれています。国史跡。

65.月山富田城 (島根県安来市)

山陰の覇者 尼子氏居城の難攻不落の要塞城

月山富田城跡

城が建てられたのは平安時代の1185年ごろと言われており、1395年に京極氏の守護代として尼子氏が入城しました。1484年に尼子経久が城を追放されますが1486年に奪還し、以降、京極氏から独立し尼子氏の居城となり、以降、経久は領土を拡張し、山陽・山陽11カ国の太守にまでなりました。子の晴久も山陰山陽八ヶ国守護になりましたが、その子の義久の代には、急速に中国地方の西方で領土を拡大してきた毛利元就と対峙するようになり、1565年に毛利軍に攻城され、1年半にも及ぶ籠城戦の上、開城。尼子氏は滅亡します。以後は毛利氏の支城となり、尼子氏の旧臣である山中鹿之介の攻撃を受けましたが、落城することはありませんでした。1600年に堀尾氏が出雲隠岐の領主として入城し総石垣造りに改修しましたが、1611年には松江城が建てられ、廃城となりました。標高197mの月山に建てられた同城は、1km四方にも及ぶ巨大な城で、難攻不落の要塞城ともいわれてました。日本五大山城。国史跡。

66.津和野城 (島根県津和野町)

千姫事件の坂崎直盛の居城

津和野城跡

1295年、吉見頼行が標高367mの霊亀山に築城。以後、吉見氏14代の居城となりました。関ヶ原の戦いの後、坂崎直盛が入り改修を行い天守も建造するも千姫事件により自害。その後、亀井政矩が石見津和野藩の藩主として入城し、明治になるまで11代亀井氏の居城となりました。1686年に落雷により天守を焼失。1786年には藩校の養老館が開設。明治に入り城内の建物は解体されました。国史跡。

■岡山県

67.津山城 (岡山県津山市)

往時は姫路城を凌いだ日本三大山城

津山城

美作国の守護の山名氏によって築城された鶴山城の跡地に、1603年に津山藩藩主として入城した森忠政が13年をかけて築城した平山城。1698年には松平氏が入り、明治まで城主として続きました。鶴山を10mを超える高石垣で囲い五重の天守が建ち、往時は広島城や姫路城を凌ぐ77棟もの櫓が建ち並んだ大規模な城でしたが、明治の廃城令により天守ほか多くの建物が破却。その後、鶴山公園として整備され、日本のさくら名所100選にも選ばれています。日本三大山城。国史跡。

68.備中松山城 (岡山県高梁市) [現存12天守]

現存12天守唯一の山城

備中松山城

岡山県高梁市にあります4つの峰から成る標高487mの臥牛(がぎゅう)山に築かれた山城で、戦国時代に城主の三村正親によって拡張されました。1574年に毛利の8万の大群に攻められた落城し、毛利氏の城となりました。1600年、関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れ備中松山藩主として池田氏が入城した後、城主が入れ替わり、最終的には1744年に板倉氏が入り明治時代まで8代続きました。明治になり廃城令が交付されましたが、不便な場所にあったため解体されずに放置され建物の倒壊が進みましたが、昭和になり修復されました。平成になり、本丸や各門、櫓などが復元されました。昨今は、早朝に雲海に浮かぶその姿から、天空の城とも呼ばれています。日本三大山城。国重要文化財。国史跡。

69.鬼ノ城(きのじょう) (岡山県総社市)

大和朝廷が作った城

鬼ノ城

7世紀の後半に、大和朝廷により唐・新羅からの侵攻に備えて作られた城とされています。標高397mの鬼城山の山頂部分に築かれ、城壁として一部に石垣を用いつつ、高さ6m以上の土塁を2.8kmにも渡り巡らせています。城内は約30haにも及ぶ広さで、倉庫とみられる建物跡の礎石も発見されています。日本の古代山城として完成された貴重な史跡です。国史跡。

70.岡山城 (岡山県岡山市)

豊臣五大老 宇喜多秀家の居城

岡山城

元は14世紀の中頃に建てられた城で1573年に同地を支配した宇喜多直家が入城。子の秀家は豊臣五大老に名を連ね、1590年より居城の岡山城を改修し、4重6階の天守を持つ近世城郭となりました。1600年の関ヶ原の戦いで負けた秀家は八丈島に流刑になり(秀家は八丈島で84才の天寿を全う)、替わって関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀隆が入るも早死にし、池田氏が城主となりました。1687年には現日本三名園の後楽園が造られました。明治になった際には藩主の池田氏がそのまま藩知事となり城は存城しましたが、以後取り壊しなどが進み、1945年の空襲で天守も焼失しました。1966年に鉄筋コンクリートにより再建されました。月見櫓、西の丸西手櫓が国の重要文化財に指定。国史跡。

■広島県

71.福山城 (広島県福山市)

徳川幕府下、異例かつ近世城郭最後の築城

福山城

関ヶ原の戦い以後、備後国と安芸国を治めていた福島正則が改易され、替わって譜代大名の水野勝成が福山藩初代藩主として入藩。大阪の陣が終わり名実ともに徳川の天下になってからは異例の新規築城が行われ、近世城郭の最後の築城ともなります1622年に五重の天守や7基の三重櫓などを持つ大規模な福山城が築かれました。以後、城内、城下町が整備されましたが、1698年で水野氏は改易となり、1700年に阿部氏が入り明治まで続きました。明治以降、堀が埋められ、建物の崩壊も進み、保存修理なども行われましたが、1945年の空襲により天守ほか建造物が焼失。1966年に天守や櫓が復興しました。伏見櫓、筋鉄御門が国重要文化財に指定されています。

72.吉田郡山城 (広島県安芸高田市)

中国の覇者 毛利氏の居城

吉田郡山城跡

標高390mの郡山に設けられました山城で、当初は毛利氏の砦的な城でしたが、16世紀中頃に毛利元就が入城し、山全体に城を拡張させながら、1540年には3万の兵力で攻めてきた尼子詮久と戦った吉田郡山城の戦いが行われ、元就は2400の城兵と8000の農民で尼子軍を撃退した。元就の孫の毛利輝元の時代に近代的城郭に修築され、中国地方最大規模の山城となりました。しかし、1591年に広島城が完成し毛利氏の本拠が移された後は放置が進み、1600年の関ヶ原の戦いで毛利氏が移封となり、吉田郡山城は廃城となりました。1615年に江戸幕府が発しました一国一城令により城内の建造物は取り壊されました。国史跡。

73.広島城 (広島県広島市)

浅野氏12代250年の居城

広島城

豊臣五大老の毛利輝元が1591年にそれまでの居城の吉田郡山城から移り住み、1599年に完成。関ヶ原の戦いで敗れた輝元の代わりに福島正則が入城し改築されました。西国街道を町中に引き込むなど城下町の拡充を行いましたが、無断で大規模な城の改修を行ったことで徳川家康の怒りを買い、正則は改易。その後、1619年に浅野長政の次男の浅野長晟が広島藩初代藩主として入城し、以降、明治まで12代250年間に及び浅野氏の居城となりました。明治以降は大日本帝国陸軍の軍用地として、軍の施設が城内に作られるも天守は残りました。しかし、1945年の原爆投下により倒壊。1958年に天守が歴史博物館として再建されました。国史跡。

■山口県

74.岩国城 (山口県岩国市)

毛利家臣の吉川氏の居城

岩国城

関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏は7カ国120万石の領土から周防・長門の2カ国30万石に減封され、広島城から萩城に居城を移しました。家臣の吉川広家も周防国岩国領の初代藩主として岩国に赴任。そして、標高約200mの城山に三層四階の桃山風南蛮造りの天守を伴う城が完成。しかし、完成後わずか7年後に幕府より出された一国一城令により取り壊されました。1962年に鉄筋コンクリートの天守が、麓からの見栄えや眺望を鑑みて、本来の天守閣跡より30mほど位置を変えて復元されました。尚、岩国城と城下町を繋ぐ橋として、1673年に岩国藩主の吉川広嘉によって、現名勝の錦帯橋が作られました。

75.萩城 (山口県萩市)

関ヶ原の戦い後の毛利氏の居城

萩城跡

関ヶ原の戦いに敗れ、周防・長門の二カ国に減封された毛利輝元が、1604年に指月山に居城の平山城を築城。指月城とも呼ばれています。萩城は幕末まで長州藩の藩庁でしたが、明治に入り廃城令により天守や櫓などの建物は解体されました。2011年に堀や石垣が復元。また、二の丸入口近くにあります厚狭毛利家長屋が国重要文化財に指定されています。国史跡。

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